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2014年8月19日 (火)

争乱の戦国史146(織豊Ⅲ08): 大阪城の築城

 秀吉は墨俣一夜城や小田原城攻撃時の石垣城など多くの築城を手掛け、生涯10以上の城を築き特筆されるものだが、その中でもこの大阪城は最も重要な城であり、その規模や豪華さも安土城を抜いたとも云われる。
 秀吉は、柴田勝家を討ち、反秀吉派を葬り、大阪を拠点に畿内とその周辺を親秀吉派大名や子飼いの馬回り達で固めて、天下人への道を歩み始めた。その第一歩が、天下人たる威容を示す城の建設であった。

 大阪城は、1583年9月1日(天正11)、秀吉自らの鍬始めでかっての石山本願寺跡地に築城が開始された。この地は京都から流れる淀川と、大和・河内から流れる大和川との合流点であり、すぐ西が大阪湾で瀬戸内に通じ、河川・海上交通の要衝地である。信長と同じく交通・物流の動脈を掌握し、海外貿易・外交を政権の基盤にしようとしたものだ。尚、この城は「御手伝普請方式」即ち全国諸大名に協力させたもので、秀吉がこの時点でそれだけの権力者になっていたことを示し、天下城と言え、全国から5万人が動員された。
F146 天守台はわずか2ヶ月で完成し、1585年4月(天正13)には、天主閣をはじめ、本丸部分が完成した。その翌年から、2期工事で、二の丸建設に着手した。安土城を上回る5層9階の天守をはじめ、多数の曲輪(クルワ)と堀に囲まれた巨大な要塞であった。二の丸工事は1588年(天正16)までかかった。尚、築城と同時に諸大名に屋敷を作らせ、又和泉や堺・摂津の商業都市の住民を移住させた。
 1594年(文禄3)からは城下一帯を堀や土塁で囲む惣構工事を開始した。城北の淀川は、そのまま堀の役割をし、城東・城西も河川を利用した惣構堀を作り空堀を掘って、要塞としての強化を図った。そして、惣構内の本願寺時の寺内町は祖もまま城下町とした。
 更に、1598年(慶長3)からは三の丸建設が始まり、そこに合った町屋はそっくり西惣構堀外の船場地区に移転させ、巨大な大阪の城と町が出来上がったのである。
 秀吉は後に京都に邸宅としての聚楽第と、隠居用の城・伏見城を作った。

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