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2014年8月15日 (金)

争乱の戦国史145(織豊Ⅲ07): 豊臣体制への道

 1583年4月22日(天正11)、秀吉府中に進んだが、前田利家は既に秀吉に与みしていたから城を開き下った。秀吉は利家を先鋒にし、柴田勝家居城・北庄城囲んだ。秀吉が急いだのは、賤ヶ岳の敗兵の集結前に一挙に陥落させるためで、3千の城兵も秀吉追撃に忽破れ、天主土居まで攻め寄せられた
F145 勝家その夜、その室・お市の方(信長妹)らと城中に決別の宴を張り、24日市は運命を共にし、長政の3女は秀吉陣に送られた。最後は天守にて、妻子を殺し城に火を放ち自刃して果てた。(は柴田神社の勝家像
 25日、秀吉が加賀に入ると、北陸の諸将は新たな風に下った。秀吉は利家に石川・河北2郡を与え金沢に、惟住長秀にはその功に加賀能美・江沼2郡を与え越前北の荘に居らしめた。5月2日、秀吉は北庄に戻り、尾張内海の大御堂寺にて信孝を自刃せしめた。行年26歳であった。秀吉は長浜・安土を経て11日近江坂本城で兵を休め、翌日虜囚となった佐久間盛政は斬首の上、洛中引き回し、首を6条河原に晒した滝川一益は降伏したので、越前・大野城を与えて許した。

 こうして戦後処理した秀吉は、愈々自らの足場固めと、近畿一帯の掌握を確かなものにするため態勢固めを行った。子飼いの馬回り達にはその戦功を賞し恩賞を与え、特に福島政則は眼前の一番槍を功として、3千石を宛がった。信雄尾張・伊賀の他に北伊勢を与えられ清州に在城丹羽(惟住)長秀は旧柴田領の越前国、加賀2郡を与えられ金沢に入る。美濃の旧信孝領は池田恒興に、稲葉一鉄・森長可などは旧領安堵。そして大身の信長旧臣を東と北陸にそのまま配置し、加増したといえる。筒井順慶(大和)、細川藤孝(丹後)には手をつけなかった。
 尚、自身安全のため、若狭・佐柿に木村重滋を、高浜城に堀尾吉晴の馬回りを入れ、丹波を養子の秀勝に、但馬・播磨を秀長に与えた。近江の掌握も重視し浅野長政を坂本に、加藤光泰を高島城に配した。そして佐和山に堀秀政を置いて大和以外の畿内も直轄と馬回りで固めた。又、龍野に蜂巣賀正勝、淡路に仙石久秀を配し、瀬戸内東部を押さえている。この時期では未だ秀吉の勢力圏が山城・摂津を中心の小さな同心円に限られていることを示している

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