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2014年8月11日 (月)

争乱の戦国史144(織豊Ⅲ06): 賤ヶ嶽の戦い

 1582年10月15日、大徳寺で秀吉が執行した信長の葬儀に柴田勝家や滝川一益らは現れず、その後秀吉と反秀吉派との対立は鋳そう厳しくなった。織田家相続を阻まれた三男・信孝は特に秀吉を敵視し、勝家と結び秀吉追い落としを狙った。
 1582年12月7日(天正10)、秀吉は先手を取り、次男・信雄と組んで、5万の軍を起こし、9日には近江へ入った。勝家が雪に阻まれている間、その徒党を討つのが目的で、勝家属城で勝豊が守る長浜城をめざし、勝豊に来降を求めた。勝豊は勝家に付いた佐久間盛政に私憤を持っており、人質を出しこれに応じた16日には大垣城に入り、稲葉一鉄からも人質を取り他の美濃衆をも従え、信雄の命に奉ぜしめた。更に美濃兼山城主・森長可を信孝に背かせ、東美濃諸城の多くをも従えた。この結果、秀吉軍に包囲された岐阜城主・信孝は秀信(三法師)を出し、妻とその母を人質として和を請い、秀吉は秀信を岐阜城に入れ。申入れを受入れた。

 翌1583年閏正月28日(天正11)筒井順慶を大和より出陣せしめ、秀吉も出陣し、勝豊から人質を取り惟住長秀と勝家の南下に備えた。また、上杉景勝から誓書で好を通じてきたので、勝家背後を脅かすべく、越中への出兵を依頼した。この状況の中で、正月伊勢で滝川一益が挙兵したので、秀吉は兵を率いて伊勢に入り、2月16日一益の亀山城を攻囲3月3日一益が遂に長島を退いたので、信雄を亀山に入れ、蒲生氏郷らに周りの諸城を攻めさせた。
 しかしこの時、勝家が滝川支援のため、3万の兵を率い近江に侵攻、佐久間盛政も越前北庄を発し柳瀬に陣をしいた。これを知った秀吉は伊勢から急遽兵を返し12日近江佐和山城に入り、長浜から柳瀬へ向け対陣して、賤ヶ岳、大岩山、岩崎山を築いて柴田軍に対峙した。17日には上杉景勝に勝家後方攪乱を依頼している。
F144 両軍にらみ合いは、1ヶ月に及び膠着状態に陥っていた。4月16日、岐阜の信孝が挙兵したとの報で、秀吉は1万5千の兵を率いて大垣城へ向かう。秀吉の戦線離脱の隙を突き、勝家配下の佐久間盛政同20日、中川清秀が守る大岩山砦を襲撃全滅させた。続いて岩崎山の高山右近を攻め敗走させた。勢いづいた盛政は勝家の制止を聞かず敵陣に深入りした。これを聞いた秀吉は直ぐ兵を反転翌21日佐久間勢を攻撃、柴田方前田利家の突然の離脱もあって、柴田勢が総崩れとなり勝家は越前北庄城へ逃げ帰った。この時活躍した福島政則ほか、秀吉子飼いの加藤清正、片桐直盛(且元)、加藤嘉明、脇坂安治たちが、後に賤ヶ岳の7本槍と称された。

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