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2014年8月 7日 (木)

争乱の戦国史143(織豊Ⅲ05): 清州会議

 明智討伐での秀吉の対処は群を抜いて迅速であった。が、徳川家康6月14日に漸く尾張に着いたが、秀吉の平定の報を受け兵を納めた。北国の柴田勝家は越中から、前田利家は能登から夫々兵を返したが、能登の石動山天平寺の僧徒の一揆に遭遇し、上洛の時宜を喪った
 そして、信孝(信長三男)・秀吉らが岐阜城を召上げ、美濃・尾張に軍を進めた機会に、6月27日信長重臣の柴田勝家・羽柴秀吉・惟任(丹羽)長秀、池田恒興らが尾張清州城に会して信長後継、遺領処分に当ることになった清州会議)。この時、滝川一益は上野侵入の北条氏に大敗しており、清州会議には遅れて参じている。この会議の招集者勝家だったが、光秀討伐の立ち遅れから、主導権を取り返そうとしての招集提唱だったと言われる。
 後継者問題で、勝家は、信孝の烏帽子親でもあったが、明智討伐にもいち早く秀吉に同行している点から三男・神戸信孝を押した。尤も次男・信雄を超える点で問題が残る。秀吉は故信忠(長男)と懇意でもあり、その嫡子・三法師(秀信)を後継として主張した。信長からの嫡流である故との筋目を通した意見に対して、秀吉が体調悪しとして別室に退いた後も、惟任長秀賛意を表して、勝家を説得した。秀吉が仮病使ってまで退出して充分論議させたのも、自分の筋論に自信を持っていたからと言われる。堂々巡りの論議が続いたが、最終的に三法師の後継と信孝による後見が決定した。天下の政道は勝家、秀吉、長秀、恒興の4人が見る事に定まり、暫くは4人連署で知行あてがいなど行う事が決まる。

 信長旧領の処分信雄に尾張、信孝に美濃、秀勝(6男・秀吉養子)に丹波、秀吉に山城、勝家に長浜6万石、恒興父子に大阪・尼崎・兵庫12万石、長秀に若狭と近江の一部、滝川に5万石と分け取りとなった三法師は当然安土に移り近江を領する
 秀吉は旧領長浜を勝家の希望通り譲り、山城を採ったが、領土分与は関係なく、明智討伐の実績は大きな重みを加え、既に諸将を超越する形となった
F143 7月11日には京に入り、公家衆以下の訪客相次ぎ、秀吉の天下が約束された感があった。その内名声は次第に高まり、肥前鍋島と誼を通じ、毛利輝元も使僧をを遣わし、信長弔意を伝え、吉川元春も山崎の戦勝を賀し、後継政権を公認した感があった。(秀吉からの毛利輝元の信長への弔意の礼状(毛利博物館蔵))。
 尚、10月3日、正親町天皇から秀吉に武勇を讃える綸旨があり、従五位下に叙し近衛権少将に任じられ、10月15日には大徳寺に於いて盛大な信長の葬儀を行ったが、前代未聞の盛儀であった。

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