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2014年7月30日 (水)

争乱の戦国史141(織豊Ⅲ03):秀吉の中国大返し

 高松城で信長の死を知って大きなショックを受け、悲しみに暮れる秀吉に対し、軍師・黒田官兵衛「あなた様の運が開ける始まりです。今こそ確りして巧くやりなさい」と耳打ちしたと言われる。秀吉が信長後継者として、天下統一事業の継承を決意したのはこの時であった。

 1582年6月6日(天正10)、秀吉軍一万(二万とも言う)全軍を叱咤激励し、山陽道50kmを一気に駆け戻って、わずか1昼夜で姫路城に帰陣した。世にいう中国大返しである。そこで2日間弱兵を休め、その間兵を集結して、時をおかず9日には明石に向い、10日には秀吉軍は摂津尼崎に到着した。(図は日本実業出版社「早わかり戦国史」より)
F141_2 この慌しい強行軍の中で、秀吉は夥しい書簡を発し多数派工作を行い、周辺からの織田方武将の参陣に備え待機したのである。その結果、尼崎までに信長旧臣・池田恒興、堀秀政、高山右近、中川清秀らの諸将が馳せ参じ、秀吉軍は当初の倍の3万に膨れ上がり、最終的には信孝、丹羽隊を加え4万ともいわれる大兵力となっていた。光秀が殆ど援軍を得られなかったのに比し、秀吉の人心掌握術の非凡さが際立ったという。

 13日富田城に信孝らを迎えて、行動開始した時は、秀吉軍は4万余に膨張していた。高山長房と中川清秀が天王山と桂川とに挟まれた道に向かって軍を進め、山手は羽柴秀長、黒田孝高(官兵衛)ら天王山へ進軍し、池田恒興らは川手筋に進んだ。こうして先手必勝、秀吉は山手を掌握したのである
 これに対し、光秀12日になり、初めて秀吉の大返しを知って驚いている有様で、慌てて山崎に出て天王山を占領せんとするが、中川勢に制圧された後のことだった。

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