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2014年7月26日 (土)

争乱の戦国史140(織豊Ⅲ02): 秀吉、信長異変を掴む

 本能寺の変で織田信長が死んだ1582年6月2日(天正10)織田政権の重臣たちは、各方面軍を率いて全国各地に散っていた徳川家康は堺を遊覧中で、伊賀越えに三河帰国が精一杯。神戸信孝と丹羽長秀は兵士の逃亡が多く、左右に供したのはわずか八十騎で動けない。東山道の滝川一益は上野厩橋に居たが、新領国経営の端緒に着いたばかり、又北陸道の柴田勝家も上杉軍を前に、魚津・松倉両城を攻撃中で、6月4日の変報にも動けなかった。

 残るは羽柴秀吉。1582年6月3日(天正10)、毛利方武将・清水宗治が守る備中高松城を包囲していた秀吉のもとに、本能寺の変の第一報が届く。光秀の発した吉川宛ての使者が秀吉の陣に迷い込んで捕えられた。と、謂うのが通説
 高松城は水攻めにより、もはや落城寸前に追い込まれていた。応援に駆けつけた毛利軍勢も手が出ず、見守る中、講和交渉も行われたが、秀吉が城主・宗治の切腹を要求したため、中断していた。しかし、前日の2日、遂に城を支えきれなくなったと判断した宗治から自決と引き換えに将兵の命を助けるという条件を示され、秀吉は直ぐに毛利の外交僧・安国寺恵瓊を介し、講和を急いだ。秀吉にとっては、目先の敵以上に光秀を討つことが最優先すべきことであった。宗治はこれを受容れ、見事切腹して果てたという
F140_2 信長の死を知った秀吉は、一刻も早く毛利と和睦し、京へ駆けつける必要があった。6月4日、宗治の最期を見届けた秀吉は、すぐに全軍に対して、信長の死を告げると、京への帰還を命じた。
 一方、4日の午後には毛利方にも信長の死の報が入る。秀吉が講和を急いだ理由を知った毛利方武将・吉川元春(元就次男)は講和を撤回し、秀吉との決戦を望んだが、これに小早川隆景(元春弟)は一度和睦したからには約束を守るべしと主張し、毛利軍は動かなかった。
 秀吉は泰然自若として、清水宗治を切腹させたのち、和平の誓紙を交換すると史上名高い、中国大返しを行い、6月6日には秀吉軍2万は姫路城に帰陣したのである

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先週の大河ドラマですね!

投稿: 自遊人 | 2014年7月26日 (土) 20時07分

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