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2014年7月22日 (火)

争乱の戦国史139(織豊Ⅲ01): 孤立した明智光秀

 本能寺に信長が討たれ、その後の秀吉の台頭と全国統一期については織豊時代第Ⅲ期とし、タイトルは(織豊Ⅲno.)の表示をする。今回はその第1回。

 1582年6月2日(天正10)、信長を討った明智光秀は、引き続き朝8時ごろには、二条御所を守っていた信忠を討つべく攻撃。光秀軍は市中馳せ参じたものを含め1500にもなり、信忠よく防戦したが、御殿に火をかけられ衆寡敵せず、自刃して果て、所司代・村井貞勝らも殉じた
 光秀はその後、目標の安土をめざし近江に向った。先ず勢多城主・山岡景隆を誘ったが、山岡兄弟はこれを拒否し、勢多橋を焼落とし、居城に火をかけ山中に退去。光秀は最初の誘降作戦に失敗し、一旦自分の坂本城に引き上げた。

 安土にも10時ごろには京の変報が伝わり、留守居の守将・蒲生賢秀は安土退去を決意し、3日午後、信長側室らを伴い、難を居城の日野に避けた
 5日、光秀安土城に入り部下にその財宝を分与し、京極高次に秀吉居城・長浜城を占領させ、斎藤利三を入れ、前若狭守護・武田元明佐和山城を攻めさせ奪った。こうした後、日野の蒲生父子を招いたが堅く拒否された
 変後、光秀は直ちに、安芸の小早川隆景に書状を発し、「将軍の意向に沿い自分も信長父子を討った」との意味の書状を携えた使者6月3日の深更に備中高松の秀吉軍に捕えられ、首を刎ねられた
F139jpg_2 9日再び上洛した光秀は各地の大名に書状を送り、自らの行動への支持を取り付けようとした。しかし、光秀に味方しようとする者は殆ど現れなかった。(光秀が山崎合戦に陣した勝竜寺
 親交の深かった細川藤孝やその子の女婿・忠興にも同様の書状を送ったが。が、細川親子ともに剃髪して光秀の誘いを断ってきた
 かって信長のもとで光秀と共に働き、大和一国を与えられた筒井順慶は、当初光秀に味方する意向を示していたが、形勢が光秀に不利とみると態度を変え、居城の郡山城に籠って光秀を拒絶6月11日には秀吉に使者を送り、光秀には協力しない旨を伝えている。

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