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2014年7月18日 (金)

争乱の戦国史138(織豊Ⅱ20): 本能寺の変

 1582年6月2日(天正10)早朝、明智光秀の軍勢約一万三千人が本能寺を取囲んだ。信長は京都における定宿を本能寺にしており、周囲には堀を設け、土塁をめぐらして城郭のような造りに改修していた。しかし、この時の信長は安土から供を2~30名ほど(一説には7~80名)しか率いておらず、護衛として余りにも手薄だった。この時期、信長を襲うような勢力は京都には居るとは想像できなかったのと、正式の軍勢は後日到着の予定であった
F138 光秀の兵が、本能寺の四方から乱入した時、信長や小姓たちはその物音を下々の者の喧嘩騒ぎであろうと思っていた様子で、鬨(トキ)の声や鉄砲の音が混じって聞こえる様になって、ただ事でないと感じ始めたようである。(は「図解戦国史(成美堂出版)より)。
 やがて、御殿にも鉄砲が撃ち込まれて、信長これは謀叛なのか、誰の企てか」と聞いた時、側近の森蘭丸が「明智の軍勢かと思われます」と答えると、信長は「是非にも及ばず」と一言答えただけであった。(「光秀ほどの戦略者が企てた謀叛なら、周到な計画の上の事であろうから、もはやどうにもならぬ」と信長は考えただろうと云われている)。

 信長を守る武将たちが次々と討死する中、信長も弓を取って応戦した。弓の現が切れると、槍に持ち替えて戦ったが、ひじに傷を受けて、建物の中へ退き「女は苦しからず、急ぎ罷り出でよ」と退去を命じた。続いて火をかけられた建物の奥へ入り、納戸の戸を閉ざして、自刃したと言われている。
 父に従い妙覚寺に滞在中であった嫡男・信忠は本能寺へ救援に向おうとしたが間に合わず二条御所に籠って明智勢と奮戦したが、力尽きて自刃した。信忠26歳の若さであった。本能寺の変の詳細は「信長公記」と当時日本に滞在したフロイスの「年報」の伝える処以外、詳細不明と言われる。
 信長の突然の死によって、もはや目前と思われた天下統一は遠退き、時代は再び混乱の世になる

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