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2014年7月13日 (日)

争乱の戦国史137(織豊Ⅱ19): 光秀変心、謀反へ

 1582年5月(天正10)、織田信長は忙しい時であった。7日に三男・神戸信孝に四国討伐を命じたところへ、14日、長男・信忠が信濃平定から凱旋し、翌15日には徳川家康が、元武田家家臣で寝返り、武田討伐に功を上げた穴山信君(梅雪)を伴って駿河拝領の御礼言上に来た。中でも盟友・徳川家康の接待には気を使い、二人を心から持て成すため、腹心の明智(惟任)光秀饗応役に命じた。
 だが、丁度この時、備中高松城包囲中の羽柴秀吉から、信長に対し、毛利方に吉川、小早川の救援が入ったという緊急の救援依頼の報が入った。信長は直感的にこれを織田・毛利の決戦の時と感じ取って、饗応三日目も終わらぬ17日に直ちに光秀に対し、先鋒として備中出陣を命じ、自らも出陣を決意したのである。
F137 光秀は直ちに安土を出立し、一旦坂本城に戻り、5月26日には居城の丹波亀山城に入り、出陣の準備に取り掛った。翌27日には京都・愛宕山の愛宕神社に参詣し、翌28日には連歌の会を催した。発句は光秀が「ときは今あめがしたしる五月かな」とした。後世この句の光秀の本心が込められたとする説がでる。即ちとき土岐で光秀の出自で自分のこと、あめがした天下、即ち今、自分が天下を取る決意を示したとするもである。
 一方信長は、20日まで家康らを饗応し、21日家康を京、大阪・堺の遊覧に赴かせ、信長29日、安土城に留守居をおいて、近臣20~30人と共に入京、本能寺に入った。

 6月1日が出陣の日である。夕刻、光秀は1万3千人の兵を率いて丹波亀山城を出発。本来であれば、西の三草山を越え、中国を目指す筈の軍勢は、進路京都方面に取った。京の森蘭丸より、飛脚があり、中国出陣の人馬の様を上様(信長)に見せよとの御諚であると告げ、京への進軍を納得させた。
 そして老いの坂を越え沓掛(西京区)に至り、側近の数名には謀反の決意を告げ、沓掛から京への進路を取って、桂川を越えたところで夜が明けた。ここで、全軍に対して「今日より光秀様が天下様に御成りなされ候間、皆々勇み悦び候へ」と光秀の天下を取る決意が知らされ、明智全軍が本能寺に向かって突進したのである。

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コメント

先週および昨日はまさにこの光景でしたね!

投稿: 自遊人 | 2014年7月14日 (月) 06時56分

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