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2014年7月10日 (木)

争乱の戦国史136(織豊Ⅱ18): 四国・九州の情勢

 1538年(天文7)に長宗我部元親は、土佐の小領主から身を起し、1575年(天正3)に土佐を統一。続いて阿波、伊予、讃岐に兵を進め、各地有力大名を次々に制圧した。一方中国地方の制圧を進めていた信長は、次の標的をこの長宗我部元親により統一されつつある四国に定めた。
 それを知ってか、元親は明智光秀を通じて信長への接近を図り、四国統一が信長の全国制覇を妨げるものでない事を訴えた。しかし、敵対する阿波の三好康長も秀吉を通じて信長に接近。信長は三好を取り込んで元親征討に乗り出した。ここでも、光秀の顔は潰されていた1582年(天正10)、信長は三男・神戸信孝に命じて四国征伐の兵を起こす。しかし、信孝の四国渡航を目前に、本能寺の変が起こり、四国征伐は頓挫した。

 九州でゃ中国・九州に君臨した大内氏勢力も家臣・陶晴賢の反乱で減退。北九州の菊池氏や少弐氏も滅亡。代って豊後の大友宗麟が豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の守護職を務め、大友氏の全盛期を築いていた。
 これに対し、南九州では島津氏が台頭していた。島津氏は薩摩・大隅・日向の守護職を務める家柄で、家督相続を巡り一族間の抗争が生じたものの、1550年(天文19)に島津貴久が鹿児島城に入城して決着。以後子の義久と共に、薩摩。大隅の統一事業を進めた。
F136 1566年(永禄9)に家督相続した義久1578年(天正6)に日向で大友宗麟と激突宗麟は島津の拠点。高城を攻撃したが、島津の反撃で敗走。耳川(宮崎県)に追い詰めら、壊滅的な打撃を受けた。この「耳川の戦い」から、大友氏の衰退が始まり、宗麟に抑え込まれていた肥前・竜造寺隆信が離反。肥前を平定して領国を拡大し、大友氏を圧迫した。
 1582年(天正10)、中国地方制圧にほぼ成功した信長のてが、何れ九州に伸びてくるのが明らかで、この頃の九州の各勢力は互いに牽制しつつも、信長の動きも中止していたのであった

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