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2014年6月28日 (土)

争乱の戦国史133(織豊Ⅱ15): 明智光秀の台頭、躍進

 話は若干戻る。明智光秀の出自や係累、略歴などは明確ではない。一時期、越前の朝倉義景に仕えていたが、朝倉家に身を寄せていた15代将軍・足利義昭と信長の接近を仲介したことがきっかけで、そのまま義昭に従う様になった。
 義昭と信長が対立し始めると、義昭の家臣であった細川藤孝(幽斎)らと共に信長に味方し、以降織田家に仕え各地を転戦し活躍した。それらの功績により1571年(元亀2)、近江に領地を与えられ坂本城主となった光秀は、信長の命で各地を転戦する一方で、畿内の反信長勢力を打倒する役目を与えられていた。又、1575年(天正3)には日向守の官職と「惟任」の姓をを与えられ「惟任光秀」とも呼ばれた。
F133 近畿方面軍司令官となった光秀が戦ったのは、紀伊・雑賀衆、丹波・波多野秀治と赤井氏、大和・松永久秀、摂津・荒木村重と、織田家の外敵から反乱勢力まで、多岐にわたり、その何れにも目覚ましい活躍を見せた。
 光秀は攻略した丹波一国だけでなく、丹後を預けられた細川幽斎と、同じく大和を預けられた筒井順慶与力の大名としてつけられ、5ヵ国に亘る軍団の指揮を行う事になる。新参ながら勝家や秀吉に並ぶ織田家の重臣として際立った存在となっていたのである。

 ところが、翌1576年(天正4)、丹波の八上城主・波多野秀治が光秀に背き、信長は細川藤孝、丹羽長秀を援軍に派遣し、八上城を攻め立てた。しかし、国衆の動向定まらず、止む無く長期戦の構えを採り、四方3里を遮断、城中への連絡を絶ち切った。1579年には羽柴秀長も応援に付けたが、城内籠城軍は餓死状態ながらも降伏を拒否。堪り兼ねた光秀は母(実は伯母)を質にだし、波多野三兄弟を誘い出し、和議の証として安土へ送った。しかし、信長は3兄弟を磔にしたため光秀の母も磔にされた信長は包囲戦での人質差出を叱ったという。
 結局、光秀は八上城を力攻めで落とし、又宮津城を占領。更に波多野余党を峰山城に攻め落とし丹波・丹後を平定した。その功で丹波は光秀、丹後は藤孝が領した。信長は二人の付き合いにも配慮したのである。

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