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2014年6月22日 (日)

争乱の戦国史132(織豊Ⅱ14): 本能寺前夜2秀吉高松城水攻

 柴田勝家が北陸平定した頃、秀吉は「三木城の干殺し」、「鳥取城の渇殺し」に続き、中国攻めの総仕上げの段階に入っていた。
 1582年3月(天正10)、機を窺っていた秀吉は播磨・但馬・因幡の兵を率いて姫路を発し、備中に向かった。4月4日、岡山に着陣。備中守備の中心は毛利方の小早川隆景に属する清水宗治の高松城である。
 秀吉は宗治に対し、蜂須賀正勝及び黒田孝高(官兵衛)を使者として、備中一国を与える条件で内附(服属)を勧めた。しかし、宗治はこれを拒否し、秀吉との対決を選んだ。そこで秀吉は宇喜多秀家の兵と共に備中の宮路山城・冠山城を囲みこれを落とし、外部からの援助の道を絶った上で、5月7日高松城を囲んだ
F132_2 高松城は周囲を湿地と山に囲まれ、天然の要害で守るに易しく攻めるに難い難攻の城であったので、秀吉は正面攻撃を避け、近くを流れる足守川から水を引き込む水攻めを採った。本陣の城東・蛙之鼻と城西・赤浜山の間に長堤を築くという、大規模な土木工事を突貫工事で行い、堰き止めた足守川の水を流し込んだ。周辺は忽ち水没し湖上の城となった。これを「高松城の水攻め」という。(は当時の秀吉の征略領域
 毛利氏は輝元自身出兵し、吉川元春・小早川隆景共に来援したが、手も出せず膠着状態となった。

 その結果、毛利方は安国寺恵瓊を以て秀吉との和議を取計らい、秀吉側の条件は備中・美作・伯耆の現係争地の他、備後・出雲両国を加えた領国の割譲と城主・清水宗治の切腹であった。この講和は毛利方からの申し入れであり、呑まざるを得なかったが、毛利方としては領国割譲よりも誠忠の宗治を救いたいと講和が暗礁乗り上げた
 
この時、信長は家康の上京を受け応接中であったが、秀吉からの救援要請もあり、急遽中国討伐へ向かう決定をする。家康応接役であった明智光秀中国出兵を命じられた。唯秀吉の出兵要請は信長に花を持たせようとの秀吉の考えだったという説がある。この時、京まで来た信長が、6月2日本能寺で光秀に討たれるのである。秀吉は4日朝、この報を受け、4日中に安国寺恵瓊を呼び、領国割譲は緩和し、清水宗治の切腹を以って講和した後、急遽京へと出立したのである

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