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2014年6月15日 (日)

争乱の戦国史131(織豊Ⅱ13): 本能寺前夜1勝家の北陸平定

 信長は一向一揆の勢力が根強く、強敵・上杉謙信もいる北陸方面の制圧柴田勝家に任せた。越前は、朝倉義景の滅亡後、朝倉家の旧臣と手を組んだ一向一揆によって占領されていた
 信長は1575年(天正3)にこれを鎮圧して勝家を越前に配置し、勝家は北の庄に定住し、更に佐々成政、前田利家、不破光治などの武将を付けた。最初の数年間は一向一揆の血生臭いゲリラ討伐に明け暮れる中で、北の庄築城を急ぎ、城下町の都市計画に力を注ぎ、越後の上杉に備えていた。しかも農民や坊主衆を武装解除し、武器は鋳潰して農具を作るという秀吉一歩手前の「刀狩り」を実施した。
F131 こうして編成された北陸方面郡に与えられた最大の役目は、100年間近く統治してきた加賀の一向一揆の鎮圧であった。1578年(天正6)謙信が急死。謙信の脅威は消えたが、勝家の積極的攻撃に粘り強い抵抗を見せる一向一揆には苦戦した。1580年、石山戦争が終結した後も討伐は続き、同年末、一向宗の金沢御坊を陥落させて一向一揆の鎮圧を終えたが、越前鎮圧から4年の歳月を要したのである。(北陸方面参照図

 1582年(天正10)、勝家は佐々成政、前田利家らを率いて北陸方面の攻略に当っており、能登を平定後、越後の上杉景勝と越中の支配を争っていた。景勝は越中の魚津城と松倉城(現魚津市)を防衛ラインとして織田軍を迎え撃ったが、同年3月に魚津城は織田の大軍に包囲され籠城戦に入った。
 5月に入ると、勝倉城から上杉軍撤退。孤立した魚津城は兵糧・弾薬が底をつき、ついに6月3日落城した。
 しかし、この直後「本能寺の変」(6月2日)の知らせが届き、織田軍は撤退。柴田勝家の越前北ノ庄城へと戻り、魚津は再び上杉の手に渡った

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