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2014年6月 9日 (月)

争乱の戦国史130(織豊Ⅱ12): 武田家の滅亡

 信長が中国・四国平定に専念するためには、背後の不安即ち武田家勢力を排除しておく必要があった。美濃の苗木九兵衛を勝頼の義弟・木曽義昌の下に送り込み調略させた結果1582年2月1日(天正10)、九兵衛から信忠(信長嫡子)に義昌が寝返ったので出兵する様にとの報告が入った。3日、信長は諸口からの侵攻を、駿河口からは家康、飛騨口は金森長近、伊奈口は信長・信忠と定め信忠軍が早速出陣した。
 一方、武田勝頼は信長侵攻に備え築いた新府城(山梨・韮崎市)に、前年暮れに移っていた。落ち着く間もなく、木曽謀叛に対し、勝頼親子と武田信豊は兵1万5千人を率いて2月2日出陣、信長軍の主力が伊那谷を北上すると見込んで、諏訪に進んだ。しかし、松尾城(飯田市)・大島城(松川町)の要所の城々の兵は寝返り或いは自落・逃走するものが殆どで、3月1日信忠は早くも勝頼弟・仁科守信が守る高遠城に達した。この勢いに勝頼らは2月28日諏訪から新府城へ撤退し、籠城戦に持ち込もうとした。
F130 高遠城は三峰川と藤沢川の合流点に位置する堅固な平山城だったが、信長軍は搦手口、大手口の両方から攻め込み、戦闘3月2日1日で終り、城主ら主立つ者が討ち死にし落城した。このため、新府に居た者達は勝頼を見捨てて逃走した。3月3日、勝頼は新府城に火を懸け、夫人、嫡男・信勝らと共に、小山田信茂を頼って南へ逃げた。しかし、信茂にも裏切られ、家臣は最後は40人ほどに減っていた。田野(甲州市)に至ったところで追っ手に囲まれ、女子供を刺殺してから最後の戦いに挑んでの討死或いは自害して果てた。かくして3月11日名門武田家は滅亡した。

 信長は3月5日、安土を出発、14日伊奈の浪合で勝頼父子の首の検分をした。これに守信と信豊を加えた武田一門4人の首は京都に送られ獄門に掛けられた。駿河口から侵攻の家康は武田一門で駿河江尻城(清水市)城主の穴山梅雪を寝返らせ、これを案内者として、富士川沿いを北上し、甲斐に侵攻した。20日、諏訪の信長の元に北条氏政の死者が到着し米千俵を贈り、又武田分国の駿河に侵攻し、信長との友好関係を保つように努めた。29日、信長は武田旧領の知行割を行い、駿河は家康に、上野は滝川一益に、北信四郡は森長可に与えるなどした。

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