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2014年6月 5日 (木)

争乱の戦国史129(織豊Ⅱ11): 秀吉、鳥取城を攻略

 秀吉は、京での御馬揃の頃、姫路城修築に掛かっていて参加できなかった。その後、前回既述の三木城陥落に引き続き、美作・備前に転戦し、小早川隆景を包囲しようとしていた。信長が石山本願寺の開城、顕如再挙への対応の間、秀吉の役割は毛利氏の牽制であった。
 為に、1580年9月(天正8)、毛利方の山名豊国を鳥取城に囲んだ。そして旧領因幡1国を安堵するという条件で内通させて、わずか2郡しか与えず、怒った豊国の部下が吉川元春に告げた。元春は豊国を追放したが、翌年2月、元春が傷ついたので、毛利方の一族・吉川経家鳥取城に入れた。
F129 同年(1581年)6月末秀吉は動き出す。二万の軍勢を率いて備前・美作から但馬口を経て因幡に入り、吉川経家が守る鳥取城を囲んだ。城が険しく、容易に破り難いのは判っていたから三木城と同じく干殺しを図ることにした。(秀吉大改築時の姫路城天主(復元模型))
 但し、従来の兵糧攻めと異なるやり方を用いた。まず、城の蓄えを放出させることを考え、若狭の商船団を因幡港に回して城内の物資を高値で買占めさせた。敵方の謀略とも知らず、城中の家臣たちは高値につられて五穀を放出してしまった。更に、秀吉は鳥取城包囲に先立ち、因幡の鹿野城を降し、守備を固めた為、毛利軍が手も足も出せず、長陣の覚悟のなかった鳥取城内は直ぐに食糧は底をつき、3ヶ月の籠城で飢餓は極限状態に達した。
 木草の葉、牛馬を食べ尽くし、鉄砲で撃たれた者の肉まで取り合いする惨状を呈するに至り、城主経家は遂に、一命に変えて士卒の助命を願い、10月25日開城して、城を接収した。これを「鳥取城の渇殺し(カツエゴロシ)」と呼び、後世まで語り継がれた。

 秀吉は一旦姫路に戻った後、11月に池田信輝の子・之助と共に今度は淡路へ兵を進め、岩谷城を攻略して占領。更に由良城も攻め取り、難なく瀬戸内交通権を掌握した。将来予定される四国渡海の中継地点を完全に掌握したことにより、一石二鳥の戦略的意義を持つ快挙であった。しかも、中国平定の合間にやり遂げたことで、信長を喜ばせた。

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