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2014年6月 1日 (日)

争乱の戦国史128(織豊Ⅱ10): 秀吉の三木城干殺し

 122回に既述の秀吉、播磨・上月城を攻略。続いて124回に既述の三木城攻略に取り掛かった時の荒木村重謀反と並行して、秀吉三木城攻略の最中であった。
 1578年2月(天正6)、秀吉は再度播磨に入り書写山に陣した。三木城主・別所長治が毛利氏に通じて挙兵したからである。長治は播磨東8郡の守護であり、秀吉に協力を申し出ており、若干21歳の青年であったため秀吉が先鋒にしようとしたが、後見の叔父・賀相が謀反を勧めて、三木城立て籠もったのである。
F128 秀吉は3月29日三木城を囲んだ。対して毛利氏は小早川隆景や吉川元春らに播磨・備前・美作の境に陣を張らせたが、毛利の狙いは秀吉軍に落とされて、尼子勝久・山中幸盛の籠る上月城を囲むことであった。秀吉は陣を播磨・高倉山に移し、上月城攻囲の毛利に相対した。しかし、毛利氏の結束は固く6月21日秀吉軍は上月城で戦って敗れ26日には陣を引いた。秀吉は上月城救援を放棄して、三木城に向かった。上月城は秀吉来援の頼みを失い糧食も尽きて、毛利軍門に下らざるを得なかった。(豊臣秀吉画像(豊国神社蔵)

 三木城攻囲上月城を犠牲に供しての戦いとなったが、荒木村重の謀反を挟んでの実に満2年にも及ぶ持久戦となった。長治は兵庫・花隈城に内通し、三木城への食料輸送を図った。又、毛利氏も紀伊・雑賀衆と連絡を取り兵船で播磨魚住に食糧を運び三木城に送ろうとした。
 しかし、秀吉はこれら三木城との連携を悉く絶ち孤立させることにより、「三木の干殺し」と言われた兵糧攻めを敢行した。その間、備前・美作に勢力を持つ宇喜多直家が秀吉に応じ、毛利方の属城・美作三星城を攻めた。直家は毛利方に立っていたが信長の勢力が播磨以西に及ぶ形勢に投降の意向を決したのである。

 秀吉の三木城干殺し戦術は、1580年正月(天正8)に入り、最終段階に達したと考えたか、攻城戦に転じた。長治は遂に正月15日力尽きて、秀吉の将・浅野長吉に、弟・友之、叔父・賀相と共に自死する事、城中の諸卒は救け置かれることを請うた秀吉はこの神妙な申し出に感嘆して、樽酒2、3荷を城中に送り最後の酒宴に名残を惜しませた。かくして、17日長治・友之らは自殺して城は落ちた。ここに於いて属城も次々落ち、播磨平定は為ったのである。

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