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2014年5月 2日 (金)

争乱の戦国史123(織豊Ⅱ05): 謙信没し 「御館の乱」

 1572年(元亀3)以来織田信長と上杉謙信は共通の敵である甲斐・武田氏を牽制するため、同盟関係を維持していた。が、1573年(元亀4)、武田信玄が死去したため同盟の意味は薄れ、逆に謙信は一向一揆を打ち破り越後に迫る勢いの信長を危険視していた。
 そしてこの時、謙信は信長に対する一向宗徒との提携を実現したため、両者の同盟関係は崩壊した。信長との同盟破棄をした謙信は1576年(天正4)、能登を支配下に置くため畠山氏の居城七尾城に兵を進めた。畠山氏はよく戦い、一度は上杉軍を撃退したが、翌年再び包囲され、織田方に救援要請を行い、信長は大軍を送り出した。しかし、勝家と秀吉の対立など織田軍の足並みが揃わず、能登国(石川)・七尾城は陥落し、織田軍は撤退を始めた。
謙信は能登から加賀国まで攻め、国境の手取川まで進軍していた両軍(上杉軍3万5千、織田軍5万)は決戦となった。増水した川に溺れる者あり織田軍は2千の死者を出して敗走した。
F123  こうして織田軍を破った謙信は春日山城に引き上げて、翌年の小田原城攻めの準備を着々と進めた。そして翌年関東出陣二日後に控えた1578年3月23日(天正6)、謙信は脳溢血で死亡した
 謙信には同族の長尾景虎と北条一族の景虎の二人の養子があったため、謙信死後両者間の相続争いが起こった「御館((オタテ)の乱」とよばれる内乱に発展した両者の争いで頭角を現したのが景勝側近の直江兼続であった。兼続は「景虎が継げば北条氏が越後に介入する」と諸将を説得。これに対し、景虎は春日山を脱出、御館城に入り景勝と対峙した。(上杉謙信画像(米沢市上杉博物館蔵)
 当初戦局が景虎有利に展開したため、兼続は北条氏と同盟関係の武田勝頼に金一万両と領土割譲を約束して協力を求めた。是を受け、勝頼は二万人の大軍を率いて越後へ来たが景虎を助けず、又北条氏からの援軍も遅れ、景勝軍の猛攻で、1579年3月27日(天正7)御館城は落城。景虎は自害した。乱後、兼続は越後の土豪を纏め、景勝政権の安定に力を尽くした。

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