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2014年5月11日 (日)

争乱の戦国史125(織豊Ⅱ07): 家康、妻子を処断

 安土城が完成した頃(1579年)、徳川家康の嫡男・信康は信長の娘・徳姫妻に迎え、岡崎城を居城としていた。この徳姫が信長に「信康とその母・築山殿(家康妻)が、甲斐の武田勝頼に内通している」という趣旨の12ヶ条に亘る告発状を送った。
 築山殿今川一門の出身である。家康今川の人質であった16歳の時、今川義元の命でこの女性と結婚していた。しかし、桶狭間の戦いで信長が今川義元を討ったため、家康は今川氏を離れて信長と同盟した。築山殿は実家である今川家凋落のきっかけを作った信長の娘を、自分の息子の嫁に迎えるという複雑な立場にあった。

 徳姫が何故夫や姑を非難したのか、その理由は定かでないが、その結果が重大事を引き起こす。信長はすぐ家康の重臣・酒井忠次を安土に呼び出し、徳姫が書き送った12ヶ条の疑惑の真偽を問いただした。忠次はこの内10ヶ条について弁明できなかったという。それで怒った信長は信康を切腹させるように命じたのである。
F125  事は徳川家の存続に関わる問題であったが、当時の徳川には信長に逆らう力はなく、、家康は信康一人を犠牲にすることで、徳川家全体を救う道を選んだ。1597年9月15日(天正7)、信康21歳の若さで遠州二俣城にて切腹築山殿も家康の命令で遠州富塚にて殺されてしまった。(松平信康画像(勝蓮寺蔵))
 築山殿は実家の親戚に当る武田や北条と盛んに交際した。そして、武田が徳川にとって当面の敵である事などお構いなしだったという。信康も優秀な武人ではあったが、その夫人(織田)からみれば粗野な人物であり、そりが合わなかったものと見られる。
 だが、実際に二人が武田と通じていたかどうか、真相は謎に包まれているが、一説には信康が優秀な若武者であったため、その存在を危険視した信長が仕掛けたのではないかとも言われている

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