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2014年4月28日 (月)

争乱の戦国史122(織豊Ⅱ04): 秀吉、中国平定開始

 話が遡るが、石山戦争で1577年4月(天正5)、信長軍が石山と雑賀に膠着している時、毛利軍は石山後援のため安芸を出発し備前の宇喜多直家と播磨・室津に着陣した。これに三木・明石・高砂の諸氏がすべて是に靡き、畿内は大いに動揺した。この時、播磨・御着城主小寺政職(マサモト)は家臣・黒田官兵衛孝高(ヨシタカ)の進言で信長側につき、5月同国英賀(アガ)で毛利軍を破り、食い止めたのである。しかし、閏7月越後の上杉謙信は本国を出て越中魚津に出陣し、能登に向かった。信長は総大将を柴田勝家とする謙信討伐軍を編成。滝川一益、前田利家、佐々成政に、羽柴秀吉と丹羽長秀を補強しての織田軍主力の編成軍だった。

 しかし、秀吉は不満であった。いくら頑張っても自分の手柄にならないと踏んだ。柴田勝家と意見が合わず諍いがあったとも云うが、命令を無視して無断で戦線を離脱する。しかもこの時(8月17日)、松永久秀・久道父子が突然信長に背き、摂津天王寺の砦を去って大和信貴山城に拠った。しかし、この謀叛は、時期も未熟だったし、準備不足であった。10月10日織田信忠・明智光秀・細川藤孝に攻められて、信貴山城に自殺した
 この間に、9月14日謙信は信長党の守る七尾城を攻めてこれを落とした。柴田勝家が一向一揆に行く手を阻まれたためである。ついで、23日加賀湊川に出陣したが、信長軍の動きは秀吉離脱のせいか、芳しくなかったが、謙信軍も明春雪解けを待って出陣、退去を定めて引き上げた。そして翌年3月15日を期して全軍に出陣の令がくだった、がその3月9日、突然謙信は脳溢血で倒れ13日49歳で帰らぬ人となった。
F122  一方、1577年10月23日(天正5)越後で来春の出陣が計画されている頃、秀吉中国平定の任務を帯びて京都を出発した。秀吉はその10月28日から「播磨国中、夜を日に継いで駆けまわり悉く人質執り固む」(信長公記)と記すように、奮闘した。播磨では小寺政職が導き、黒田官兵衛の迎えによって姫路城に入った。(図は黒田如水画像(福岡博物館蔵))
 秀吉はさらに但馬国にも手を伸ばし、岩淵城を攻略し更に竹田城も落とし、義弟・秀長を城代として入れた。11月には播磨福原城を攻略、そして上月城を囲み12月3日には下ってきた。こうして毛利勢の一拠点を奪い、尼子勝久を移したこうして秀吉の中国攻めが開始されたのである

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