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2014年4月24日 (木)

争乱の戦国史121(織豊Ⅱ03): 石山戦争の終息

 信長と石山本願寺の争い(石山戦争)は、1570年(元亀元)本願寺11世・顕如が各地門徒に檄文を発し、信長に敵対した事から始まった。以降、一向一揆は信長の天下統一に大きな障害だった。1574年(天正2)の伊勢長島一揆、翌年の越前一向一揆が信長に制圧され、その勢力は衰え始めたが、石山本願寺に拠る顕如は頑強に抵抗していた。(図は顕如が発した「顕如の檄文」(明照寺旧蔵))
F121
 1576年(天正4)、信長に追放され備後国に逃れ、毛利に庇護されていた足利義昭の仲介で、顕如が中国地方の覇者・毛利輝元と手を結んだ。一方、信長同年4月、再び石山本願寺攻撃を開始したが、本願寺側は毛利水軍による海上からの補給を受けて織田軍を圧倒した。更に7月15日、毛利水軍が800艘の船で摂津木津川河口(大阪湾)から石山本願寺に補給を行うという情報が信長に入った。信長は児の海上補給路を断つべく水軍による決戦を挑んだ。
 毛利川は、瀬戸内海で海賊行為を生業とした村上水軍を中心に、焙烙(ホウロク)火矢という強力な武器で織田水軍を圧倒した。信長軍は補給路断絶に失敗し、籠城する本願寺勢との戦いは膠着状態に陥った。

 翌1577年(天正5)、信長は紀伊国の土着勢力で本願寺への物資補給に協力していた雑賀衆を羽柴秀吉、佐久間信盛、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀らに命じて攻略。また、九鬼嘉隆と滝川一益に命じて船体に鉄板を張った巨大軍船(鉄甲船)を7艘建造させ、石山本願寺攻略の準備を整えた。船体は横幅12.6m、縦約22mで、船首から船尾まで総矢倉に造られ「海に浮かぶ城」と評されたという。
 1578年11月(天正6)、織田水軍は本願寺への救援物資を満載した毛利水軍600艘の船団と、再び木津川河口で対決する。7艘の鉄甲船で敵の炮烙火矢を無力化した織田水軍は、毛利水軍を退け大阪湾の制海権を奪取。補給路を断たれた顕如1580年4月(天正8)、正親町天皇の斡旋で信長と和解し、本願寺から退去、10年に亘った「石山戦争」は漸く幕を閉じたのである。
 顕如の子・教如は再決起を門徒に呼びかけたが、その抵抗も長く続かず、信長は周辺の砦を次々と落とし7月17日付で教如に起請文を送り、退去を求めた。8月2日退去と共に伽藍に火を懸け蓮如以来85年の歴史を刻んだ本願寺と寺内町は灰燼に帰した

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