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2014年4月13日 (日)

戦国史118(織豊Ⅰ18): 長篠の戦い 

 信玄没後、武田家と徳川家・織田家は東海地方を巡って激しく争っていた。信玄を継いだ武田勝頼は、遠江や美濃へと積極的に遠征し、武田家の最大版図(領地)を築いた1574年(天正2)には、信玄も落とせなかった遠江の要衝・高天神城攻略するなど確実に成果を挙げつつあった。
 1575年(天正3)、勝頼は徳川方に取られた長篠城奪還のため甲府を出陣した。同年4月下旬には勝頼は15000の大軍で、徳川方の武将・奥平信昌が守備する長篠城を囲んだ。この地は信濃から三河に通じる要地のため、徳川家と武田家の係争が続いていた。勝頼の侵攻の報を受けた家康は同盟する信長に救援を仰いだ
 同5月13日、この報を受けて信長は救出のため3万余りの軍勢を率いて出陣、家康8千の兵を率いて出陣し翌日岡崎で合流した。

 信長は先ず長篠城の出城である鳶ヶ巣山砦に家康家臣・酒井忠次を派遣。奇襲を敢行して鳶ヶ巣山砦を落とし、長篠城に援軍を入れることに成功した。その上で長篠城の西・説楽原(シダガラハラ)に陣する勝頼に対し、織田・徳川連合軍は説楽原を流れる連呼川に沿って陣をしいた。此処で、信長は堀を設けたり、土手を利用し、又馬防柵を設けて、大量の鉄砲を調達・配備して武田との決戦に臨んだ。
F118_2   背後(長篠城)と説楽原の防備柵による鉄砲隊に挟まれ、武田軍は騎馬隊を中心に織田軍へ殺到したが、馬防柵に行く手を阻まれ、鉄砲隊の集中砲火を浴び、信玄以来の誉れ高い武田の騎馬隊はその真価を発揮できず、次々と討ち果たされたは長篠合戦の徳川鉄砲隊の図
 前以て、長篠城を経由して退却する道を塞がれ説楽原の出るより他ない武田軍は、古い鉄砲知識しかなく、狙い撃ちに遇ってもやむなく繰り返し突撃して退路を開くほかなく、武田軍は1万余の死傷者、逃亡者が出て壊滅状態となった。
 勝頼はわずかの従者に守られ甲府に逃げ帰った。有力武将たちも失い、結果的に武田家はこれ以降衰退していった。対して信長は得意満面で岐阜城に凱旋帰国した。信長の当面の敵の殆どを倒し、いよいよ信長の天下統一事業が始められのである

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