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2014年4月 9日 (水)

争乱の戦国史117(織豊Ⅰ17): 信長、越前平定

 朝倉義景亡き後、1574年正月(天正2)、信長から「守護代」に任じられた一乗谷城主・桂田長敏と、同じく寝返りで府中城将となった富田長俊対立したが、一揆と結んだ富田が桂田を討った。これを機に、一向宗の坊主や門徒が次々と蜂起し、信長が北の庄に置いた織田三人衆を追放、信長方に寝返った富田や朝倉景鏡、溝江ら各城主を討った。越前は百姓たちが一揆を結成したのである。
 しかし、この一揆を指揮すべく乗り込んだ七里頼周(ライシュウ)らによって、越前国本願寺の分国に編成された。本願寺の顕如は下間頼照を守護代に、同頼敏を足羽郡司、杉浦玄任を大野郡司にして支配体制を整え、一揆に立ち上がった村や町の人々に年貢や夫役の課役をかけた。本願寺の法流に従わぬものを法敵としたため、その年閏11月と12月下間ら門徒衆の間で一戦が起きたのである。
F117  信長はすかさずこの機を捉え介入。越前奪回のため1575年8月岐阜を発した。先陣は越前牢人衆がつとめ、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・羽柴秀吉ら3万余の大軍が進撃。海上からも若狭衆と丹後衆数百艘の船で押し寄せた。一揆側は侵入路や府中竜門寺に城砦を構えたが、15日それらは早くも先陣の攻撃で落とされ、一揆方の戦力は劣り一部逃走して秀吉や光秀に討たれた顕如画像(願泉寺蔵)
 信長方に寝返ろうと、一揆方大将下間らの首を切って持参した朝倉孫三郎も、許さず切られた。籠城者や山に逃げ込んだ者も容赦なく首を切られ、8月15日から19日までの死者は3、4万に及んだという。更に信長軍は加賀に侵入し、能美郡・江沼郡を支配下に入れた。

 信長は越前国のうち八郡柴田勝家に与え、北庄城に置き、大野郡の三分の二を金森長近、三分の一を原彦三郎に与えて大野郡に置いた。今立郡・南条郡は前田利家・佐々成政・不破光治に与え、府中とその近辺に置いて勝家に対する目付(監視役)とした。そして、支配方針を盛った越前国掟九ヶ条を定めた。
 一国の支配のため国掟を制定したのは、信長が初めて分国支配者(大名)から脱して、自らがその上に立つ統一政権としての自己を明確に位置づけたのであると言われる。  

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