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2014年4月 6日 (日)

争乱の戦国史116(織豊Ⅰ16): 長島一向一揆の壊滅

 木曽川・長良川が注ぎ込む伊勢湾の川内長島は伊勢国に属すが、この沿岸一帯は一向宗の拠点であった。信長の本拠地・尾張に隣接しており、1568年(永禄11)に伊勢の北部を、翌年に南部を制圧したにも拘らずこの地を平定できなかった。ここは一向宗の長島願証寺を中心に、長島の人々が信長支配を拒んだのである。
F116  川内長島は大小島々からなり(掲図:伊勢湾古地図参照)、が交通手段で商業・運輸業・漁業の手段であったから、信長は容易に近づけず、北方の小木江城に弟の信興を入れ足がかりとしていた。これに対し、長島の一向一揆は1570年11月(元亀元)、近江での一揆蜂起と浅井・朝倉軍の攻勢に呼応して挙兵し、信興を攻めて自刃に追い込んだ。このため翌年5月、叡山焼討の前に信長は長島を攻めたが歯が立たなかった。氏家卜全らが戦死し、柴田勝家が負傷して追われたのである。

 本願寺は此処を重視し、軍備強化したが、1574年7月(天正2)ついに信長は大軍を動員して四方から攻撃を開始した。特に志摩の九鬼嘉隆や伊勢の滝川一益等の水軍は大きな軍船・安宅船を出し、その他伊勢・尾張の船と船乗りを総動員して海上封鎖したため、長島方は逃げ道を失い兵糧補給も出来なくなった
 一揆勢は多方面からの攻撃に、分散して出撃、防戦したが、次第に追い詰められ篠橋・大鳥居・屋長島・中江・長島の5ヶ所に楯籠った。しかし、大鳥居・篠橋などが集中攻撃で大鉄砲に打ち込まれ、塀・櫓も壊されると降参した。しかし、信長は懲らしめのため干殺しにすると言って許さず、8月2日に夜逃げしようとし男女千人は切られた。7月末に早くも餓死者が出て、8月には度々降伏を申し出たが、信長は皆殺しをする積りで許さなかった。
 ところが、9月末突然降伏を認めると、船で退去する一揆勢に対し、鉄砲の一斉射撃を浴びせ、騙し討ちにしたのである。最後に残った中江・屋長島には男女二万ばかりが立て籠もっていたが、これを幾重もの柵囲いで逃げなくした上で、四方より火を掛け焼き殺した。こうして長島の一向一揆は壊滅させられ、伊勢湾全域が信長の支配下に入った。比叡山焼討を上回る信長の残忍性を象徴する虐殺だったと言われる。

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