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2014年4月 3日 (木)

争乱の戦国史115(織豊Ⅰ15): 浅井・朝倉の滅亡

 1573年8月(天正元)、信長は愈々宿敵・浅井、朝倉の討伐をめざし近江に入り浅井長政居城・小谷城を包囲した。朝倉義景は大軍を率いて救援に駆けつけ、近江の木之元・田部山に陣したが、織田軍がこれを圧倒し、信長はその退路を断って陣を山田山に移し、次いで大嶽を攻略し、丁野山を陥れた。
 そこで、朝倉軍は陣を撤して越前に走った信長軍は一挙にこれを追撃し敦賀に至り、かって長政裏切りで敗北の因縁のある金ヶ崎城に入り、朝倉の本拠地・一乗谷へ攻撃を開始した。平泉寺に向かった信長を、平泉寺衆徒が導き、一族影鏡(カゲアキ)の叛心により、義景は山田荘・賢松寺に包囲され、もはや反撃の余力もなく追い詰められた義景8月20日ここで自刃した。41歳であった。朝倉氏の祖・広景入国以来、11代230年、守護代から越前守護に任ぜられ領国支配に優れた実績を残したが、ここに朝倉氏は滅亡したのである。
F115_2  朝倉氏を倒した信長は引返して、虎御前山に陣し、浅井久政・長政父子小谷城に攻めた8月27日、父子の館の真中に位置する京極廓が先ず羽柴秀吉の手に落ち、長政の入る本丸と父・久政が守る小丸を分断。秀吉が小丸に攻撃を集中し、久政を自害へと追いやった。(図はお市の方画像)
 翌日、長政は激しい戦闘の末、もはやこれまでと思い定めた長政は、妻のお市の方ち三人の娘信長の元へと送り届け、自刃した。戦国の雄・浅井氏も滅んだ。長政嫡男・万福丸は関ヶ原で、にされ、北近江に君臨した浅井氏の血は根絶やしにされた。浅井氏の旧領は秀吉に与えられ、秀吉は初めて国持大名になった。

 信長の浅井長政・久政に対する怒りはそれで収まらず、三人の首は京都に運ばれ、市中引き回しの上、梟首(さらし首)にした。尚、万福丸(10歳)磔は、残虐非道の行為に思えるが、嫡流を断つのは戦国の常識だった。又梟首三人の首の髑髏に箔濃(ハクダミ)(漆を塗って金泥で彩色)を施し、盆に載せて飾り酒宴の肴にしたと非難す向きもあるが、これは死者への敬意を表す仕来たりであった。 

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