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2014年3月

2014年3月30日 (日)

争乱の戦国史114(織豊Ⅰ14): 室町幕府の滅亡

 1573年2月(元亀4)、武田信玄の西上を待つ将軍義昭は、信玄の発病を知らずなお強気で、この好機を逃すまいと各地の土豪や信長の敵対勢力を糾合し近江で挙兵に踏み切った。京都から近江にかけての同調者も蜂起した。
 一方信長は信玄と義昭に挟み撃ちにされるのを恐れ、窮地に陥り、義昭に和議を申し入れたが、3月にはそれまで信長に従っていた松永久秀や河内若江城の三好義継義昭に同調したので、強気の義昭は信長との和睦を突っぱねた
 業を煮やした信長3月25日岐阜を出発し上洛の途に就くと、義昭重臣の細川藤孝と荒木村重が逢坂まで迎えに出て義昭と決別した。29日に上洛した信長4月3日には京都郊外の村々を焼き払い翌4日上京に火を放ち町を全焼させ義昭の御所・二条城を包囲した。さすがに義昭もこれには驚き、正親町天皇に和議斡旋を願い出て、両者は応じて和睦した。

 信長は一旦岐阜に帰国し、武田軍の襲来に不安を感じながら、義昭との再戦の準備に入る。4月12日信玄病死。その風聞が畿内に流れ始めた5月22日、琵琶湖畔の佐和山城の丹羽長秀に命じ、湖畔で大船建造の開始をする。この船は兵員輸送用の船で2ヶ月足らずで完成した。
F114  対する義昭7月3日宇治川の中州にある槇島城に移り挙兵した。信長は出来上がったばかりの大船に兵を満載し佐和山を出て、琵琶湖を一気に渡って坂本に上陸すると12日には二条城を占拠。続いて16日には義昭が籠る槇島城を包囲すると義昭は為すすべなく降伏した。(:義昭御所跡出土の石仏群
 信長は義昭幼児・義壽(ヨシヒロ)を人質に取り、羽柴秀吉に命じて義昭を河内・若江城(三好義継在城)に送り届けさせた。この後、義昭は紀伊国・由良を経て備後の靹に逃れた。義昭は将軍の肩書はあり、公方と呼ばれ各地の大名らと通じて信長打倒を画策して、毛利の元で上洛の機会を窺った。
 しかし、15代将軍足利義昭の敗北により、室町幕府は中央政権としての実体を名実ともに失ったのであり、これを以て室町幕府は滅亡したと言ってよい。

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2014年3月29日 (土)

桃の花も満開!

 今日は、桜の前に咲く桃も満開を過ぎようとしているので、桃の花を採り上げておく。
Photo  上桃の花。梅に次いで、桜より早くから咲き始め、桃も今が満開。この白い桃は民家の庭木だが、多分桃を取るための木ではないかと思う。やや日陰で開花は遅かった。名の由来は桃の実が赤い所から「燃実」となり、それがももになったという。
Photo_2  花桃1。花の鑑賞用に江戸時代に品種改良された桃。庭木の殆どがこれである梅、桜との違いは花弁が梅は丸く、桜が先端が分かれているに対し、桃は尖っている花柄は桜が長いのに対し、梅と桃の花柄は短く枝にじかに咲く樹皮横筋が入り桜に似る
Photo_3  花桃2。桃の兆はきざしで、妊娠の兆しから、桃の節句、ひな祭りなど女性に関係あるものとされるが、桃は昔から霊力があると信じられ、強い男の子と云う意味での桃太郎の話古来からあるという。何れにしろ、目出度い木である

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2014年3月28日 (金)

桜満開!

Photo  香椎宮の桜1。好天に恵まれ、昨日福岡は桜満開宣言を出した。昔は満開宣言などなかったが、いつ頃からできた言葉だろう。因みに「満開は8分咲き以上の桜を満開と云う」とテレビが解説していた。ご覧の通り、花の下ではお花見弁当等を開いている花見風景。
Photo_2  香椎宮の桜2。香椎宮のグラウンド周辺は、参道側以外の3方を桜で囲んでおり、これは道路側の桜。開花の度合い昨日現在で7~9分咲きであったが、今日はおそらく本当の満開であろう(最高気温24度の予報)。この暑さが続くと散るのも早くなるであろう。
Photo_3  香椎宮の桜接写。間違
いなくソメイヨシノである。と言っても、素人には花だけ見て桜の品種は判らない。勿論、香椎宮以外の桜も殆ど同程度の開花度であり、今日現在は何処に行っても桜、桜、・・・、となっている。もう少し開花も遅速があれば長く楽しめるのになあー

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2014年3月27日 (木)

桜開花の早い事!

 つい先日まで堅かった桜の蕾が、昨日の小雨ながら気温上昇による暖かさ、そして今日の快晴で、一挙に開花が促進され、ソメイヨシノは大凡、3~5分咲き所によっては満開近い状態となった(福岡城はほぼ満開)。桜とはこんなに一挙に咲くものかと驚いている次第。きっと、花見の幹事さん達は花見会の設定に大忙しなのではないだろうか。
 桜ばかり見てないで他の花もと見渡して、今日はレンギョウ。
Photo  レンギョウ(連翹)。古名イタチハゼ、イタチグサ原産地の中国では連翹とはオトギリソウ又はトモエソウのことらしいが、日本に誤って伝わった由。半つる性で、繁殖力が旺盛なのでよく茂るので、庭木の他、フェンス内の生垣などに使われる。節があり、中の髄が早期に消えるので連翹空木の名がついた。
Photo_2  その。3-4月、2-3cm位の黄色い4弁花が付き、遅れて葉が出てくる。緑色だが、秋には濃緑色→黄緑色→紫色と変色して落葉。秋の葉の色の変化も楽しめる。尚、日本原産ヤマト連翹(中国地方)、小豆島連翹(小豆島)が自生しているが、この地方しかない固有種で、絶滅危惧種に指定されているという。

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2014年3月26日 (水)

争乱の戦国史113(織豊Ⅰ13): 三方ヶ原の戦と信玄の死

 将軍義昭と信長の対立が表面化し始めると、甲斐・武田信玄の元には「上洛し信長を討て」との要請が義昭から来るようになった。この頃、信玄は隣国、相模・北条氏との戦闘が続き、これに応えられなかったが、1571年10月(元亀2)、北条氏康が病死し、氏政に代替りすると、同年12月かっての甲・駿同盟関係復活信玄上洛の条件がそろった
 武田信玄1573年9月末に山形昌景に別働隊を率いさせ、三河東部の徳川領に向け先発させ、自らは越前・朝倉氏や近江・浅井氏、石山本願寺とも緊密な連絡を取り、信長包囲網を強化しつつ10月3日甲府を発した。南進して遠江に入ると、二股城を取り囲み12月19日に落とすと、徳川家康の居城・浜松城に迫る
F113  城を守る家康は信玄の攻撃を待ち構えていたが、武田軍浜松城を回避。城の北方を西進し、三方ヶ原の台地に達した。これは日数を要する城攻めで兵を疲弊させるよりも徳川軍を誘い出して勝負する方が有利と見た作戦であった。一方家康の役割は、同盟者・信長のために信玄の西進阻止をする事だったから、12月22日、家康は信玄の誘いに乗り城を出て決戦にのぞんだ。
 信長の援軍のわずか3千が到着した事も家康を強気にしたが、家康軍は8千。対して武田軍は2万数千と言われ、勝ち目がなかったが、武田軍の背後から攻撃をかけた。三方ヶ原の戦いである。武田軍は直ちに応戦して徳川軍を打ち破り、徳川軍は総崩れとなった。援軍の将・平手汎秀はじめ多くの戦死者をだし、家康自身も命からがら浜松城へ逃げ帰った家康の生涯での最大の敗戦であったと言われる。図は敗戦の将のみじめさを生涯忘れまいと描かせた家康像である。

 一方武田軍はさらに西上を続け1573年(天正元)早々に三河に入り、野田城を攻めた。この城の厳しい守りに、金堀を使って地中を掘り進め、城中にの水を抜き、2月中旬には攻め落とした。しかし、この間信玄は既に発病していた。
 長篠まで進んだところで、信玄の病状が悪化し、西進を諦めねばならなかった。止む無く帰国途中の4月12日、伊那谷の駒場で53歳の生涯を閉じたこの信玄の死により絶体絶命の危機に直面していた信長は起死回生の幸運を掴んだのである

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2014年3月25日 (火)

花(桜)咲く2 オオシマザクラが開花

No_2  ソメイヨシノの開花状況テレビは、福岡では今日明日からでも花見が出来そうだと報じていたが、拙宅近くの運動公園の普通の大方の桜の開花状況は昨日現在、写真の通り花見はあと4、5日先からでしょう。
Photo  オオシマザクラ(大島桜)。多々良川河畔の公園に植えられているこの桜が一斉に開花している。伊豆諸島自生する桜で、古くより薪炭用に植樹されたものが逸出している由。故に別名タキギザクラ染井吉野の交配種の片方である。花期3-5月。花と同時に緑色の葉もつける。
Photo_2  大島桜の。新緑の緑と白色が混じった色合いの花。展葉と同時に咲くはやや大きく香りがある。3-4個が散房状につき、花柄と萼は無毛で、蕚片に鋸歯が付く。樹皮の横に長い皮目(横線が入る)がつくのが特徴。

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2014年3月24日 (月)

ハクモクレンも満開

 民主国家においては、選挙権を行使することが、最大の権利行使である。だから、選挙の投票率が低い事はその権利を放棄している、即ち民主主義を否定していることになる。今回の大阪市長選は大多数の市民が、橋下市長の作為的な選挙戦術にはまりたくない故に投票をしなかった。と云うより、選挙の体を成さしめないために、対抗馬を立てなかった。が、この選挙は23%の投票率でも、法的には有効である。故に橋下知事は信任されたことになる。
 当然のことながら、選挙をこのような政争の具に利用してはいけない。選挙制度の破壊は民主主義の否定につながっている。向後このような選挙は成し得ないような選挙制度改革が必要だ。
 昨日辛夷を載せたが、それと兄弟のような同属のハクモクレンを今日は紹介。
Photo  ハクモクレン(白木蓮)。普通コブシより早く開花するが、今年は殆ど同時に咲いた。樹高はコブシが4、5mに対し、モクレンは8-10mにもなる。コブシが真直ぐ上に枝を伸ばすに対し、モクレンは斜めに上に伸びる。花弁はコブシが幅狭く、小さいのに対し、モクレンは大きく厚みのある花弁と云う様に違う。別名ハクレン紫色のはシモクレン
Photo_2  その。コブシが横向き全開して咲くに対し、モクレン上向きに半開程度しか開かない。そして花弁コブシと同じく6枚だが、花弁とそっくりの萼が3枚あるので、9枚あるように見える。この花は全開しないので中はよく知られてないが、中には小さなピンクがかった花が入っている公園の花での確認はいけないでしょうが・・・・

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2014年3月23日 (日)

街路樹のコブシも散り始めた

 今日辺りから気温も上昇し、いよいよ春だ!と云う感じ。オバマさんの骨折りで、米・日・韓の首脳会談が実現しそうだ。しかし、韓国は不承不承の感がしないでもないので、表面上穏やかに推移するかもしれないが、心底友好と云う事にはならないだろう。それにしても仲介役がないと話せず、日韓共に主権国家として自国の外交が出来ないというのは、情けない感じがする。子供の喧嘩じゃあるまいし、喧嘩する前にもっと考えて行動すべでないのか。大人の外交を望む。
 ところで、陽春。春の花が次々咲いていて忙しくなってきた。今年も先ずコブシを載せて置こう。
Photo  コブシ(辛夷)。これは住宅街の街路樹。コブシは田植え前に咲くので、別名打ち桜とも云う。枝を折るといい匂いがするので、アイヌ語では「オマウクシニ(良い匂いを出す樹)」というそうだ。果実がデコボコして、握り拳に似ている故の名前。学名のMagnolia kobus の kobusコブシから来ているという。
Photo_2  コブシの。花期は3~5月。花弁は6枚。花弁の幅が狭く、全開して咲くが横向きに咲き、花の下に小さい葉を一枚付ける。白木蓮より小さな花で、ピンクの「紅辛夷」もある由。花の蕾を乾燥させたものは「辛夷(シンイ)といって生薬になるそうで、風邪による頭痛鼻詰まりなどに効く由。

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2014年3月22日 (土)

花(桜)開く1 咲き始めた!

 桜が咲き始めた。福岡での開花状況をお伝えします。一昨日開花宣言が出されたので、久しぶりの青空となった昨日、ウオーキングの途次、桜の木に目を向けながら歩いた。途中コブシやモクレンが今を盛りと開いていたが、ソメイヨシノは大体、蕾が膨らみ始めたという段階。
 ところが、山裾の北風を遮る小高い山を背にした、南向きの小さな公園に入ってみると、あった! 柔らかい日差しを浴びて、枝の先の花が開き始めている。早速カメラに納めて帰ってきたので、今日はそれを紹介。
Photo  咲き始めた枝。先ず、ソメイヨシノの品種の由来。ソメイヨシノ(染井吉野)とは日本原産のエドヒガンザクラ系とオオシマザクラの交配で生まれた日本産の園芸種である。ソメイヨシノはほぼ全てクローンである。即ち、皆「同じ種」の桜です。
Photo_2  接写の花。次いでソメイヨシノの名の由来。江戸末期から明治初期にかけて、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人たちによって育成された
 初めサクラの名所として古来名高い大和の吉野山に因んで「吉野」「吉野桜」として売られ広まったという。しかし、上野公園のサクラ調査で、山桜と異なる種の桜であることが判り(1900年)、吉野山の桜とは異なる種であることから染井村の名を採って「染井吉野」とした由。

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2014年3月21日 (金)

開花宣言

 昨日、福岡気象台の基準木となる桜が5個開花したので、宮崎・高知と共に開花宣言となった。勿論昨年より遅いし、大方の桜は未だ固い蕾のままであるが、来週末には満開になるでしょうとのこと。待ちに待ってようやく咲いたら、1週間もすれば散ってしまう。惜しまれて散ってしまうところが桜の良さであろう。何れにしろ、季節を刻む大きな標であり、入学や卒業など人生での転換点でもある故の感慨を伴う故、余計に日本人の心に染み込んでしまう花となっているような気がする。
 今日はその桜と程遠いというか、全く奇異な感じの特徴ある花トウダイグサを紹介。
Photo  トウダイグサ(燈台草)。本州以南に広く分布。日当りの良い荒地や畑に生える。葉の付き方に特徴があり、茎の中程互生するが、頂部は丸味の強いヘラ型の葉を5枚ずつ輪生する。苞葉の中に黄色い花を複数つける。苞葉は椀状で燈台の皿に見立てての名前である。
Photo_2  その。茎の頂部から放射状に花茎を伸ばす。花期は4-6月だが、当地では3月から咲始める。この花、雌雄異花で、総苞の内側に単一の花の様に見える雄花が輪を作り、中央に単一の雌蕊からなる雌花が1個あって、それ全体が1個の花のように見える、非常に変わった花である。

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2014年3月20日 (木)

争乱の戦国史112(織豊Ⅰ12): 将軍暗躍と織田・上杉同盟

 1572年(元亀3)、信長は暗躍を続ける義昭に対し、最後通牒とも云うべき「意見十七条」を突き付け、義昭の政治活動を厳しく非難した。さすがの義昭も武田信玄の他、浅井氏や朝倉氏、六角氏、中国の毛利氏、九州の大友氏とも連携を図り、信長排除へと動き出していた。
 その影響もあったか、同年には本願寺・武田信玄・朝倉義景・浅井長政中核になって反信長同盟が結成された。本願寺は三好義継・細川昭元らの畿内勢力の結集を進めた。松永久秀も加わり、東西南北からの包囲網が成立した。一方信玄も信長に焼き討ちされた比叡山と手を結ぼうとしていた。信長は絶対絶命の危機に陥った
F112  同年3月19日上杉謙信は、信長がこの危機を脱するためには信玄に先じて比叡山の再興を打ち出すこと。浅井と和睦すること必要だと、信長に勧めた。その上で謙信・信長・家康が申し合わせ信玄を討ち、以後浅井その他を討てばよいと言った。謙信が信玄を最も恐れていたことが伺える。(上杉謙信画像)
 同年7月信長は大軍をもって江北に出陣し、嫡男(信忠)の具足始めであったので、父子揃っての出陣で、今度こそ小谷城を攻略せんとの意気込みであった。江南の村々から人足を総動員して、虎御前山に堅固な砦を築いて、攻撃の拠点とした。
 これに対し、朝倉義景が救援の大軍をだし、7月末に江北に入ると、信長方の攻勢もそこまでで、砦を築いて9月半ば信長は撤退した。但し、8月8日、義景臣・前波吉継父子が裏切り信長の陣に入り、他の者もそれに続いた。朝倉勢には、先行き不安が醸成されていたという。

 信長が撤退したのは信玄に備える為であった。信長は謙信に救援を求め、11月には謙信の誓詞を届けた使者の面前で血判起請文を書き正式に同盟を成立させた。その謙信に対しては、北陸では越中・加賀の一向一揆が、関東では信玄と再び同盟した北条氏が攻勢をかけて、その動きを牽制した。

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2014年3月19日 (水)

春が来たが・・・

 どうやら、本格的な春になって来たようだが、今クリミヤの問題で世界の緊張感が高まっている。クリミヤは帝政時代からのロシア領だった。が、1954年、当時の指導者フルシチョフの判断でウクライナ領に帰属替えとなったものである。だから、今回のロシア編入は60年ぶりの「失地回復」なのだが、ところがこれに欧米諸国が強く反対しているため、冷戦時代への逆行かと、世界が注視している。
 そのような中で、親露路線で北方問題を解決したい安倍政権は米露両国のどちらにウエイトを置くか難しい局面となっている。政治家の力量を問われかねない事態になっていると言えよう。
 春が来て、これからいろんな花が一気にさきそうだ。今日は草花を紹介。
Photo_2  ノボロギク(野襤褸菊)。野に生えるサワギク(ボロギク)から来た名。別名オキュウクサ、タイショウクサとも云う。世界中の寒冷地から亜熱帯地に分布する。日本には明治初期にヨーロッパから入り、全国に分布。一般の畑や果樹園、道端、空き地などに自生。
Photo_3  。開花期は5-8月だが、温暖地ではほぼ年中咲くが、冬から春にかけての花が目立つ。頭花は散房花序状につき黄色の筒状花からなるが、総苞は1cm位の筒状。写真の綿毛状のが果実でそう果(痩果)(タンポポと同じで見た目には種子のようだ)である。

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2014年3月18日 (火)

争乱の戦国史111(織豊Ⅰ11):比叡山の焼討

 前年、正親町(オオギマチ)天皇の勅命で朝倉氏他諸勢力と和睦した信長であったが、1571年2月(元亀2)に再び行動を開始した。信長は浅井方の支城・近江の佐和山城を奪い丹羽長秀を城主に据えた。これは浅井との再戦に備えたもので、和睦数ヶ月で約束を反故にした。
F111  更に前年、弟の織田信興を失った伊勢長島の一向一揆に対しては、鎮圧のために武将の滝川一益を派遣した。8月には浅井長政の本拠・小谷城攻めを自ら指揮し、翌9月には南近江の金ヶ森で石山本願寺・顕如の呼びかけで蜂起した一向一揆鎮圧に当たっている。顕如の檄文で、信長への徹底抗戦の呼び掛け状)

 一方前年、浅井・朝倉連合軍が比叡山に籠って信長に敵対した際、これを支援した延暦寺に対しては、信長は比叡山の僧侶を招き、寺領の返還を条件に「味方するかせめて中立を守る」よう求め、「拒否した場合は全山を焼き払う」と威嚇した。しかし、比叡山はこれを拒否したばかりでなく、浅井・朝倉側に好意的な動きを見せた。信長軍は比叡山を包囲し兵糧攻めにしたが、睨み合いは3ヶ月に及び正親町天皇の調停で和議していた。
 今回はその鬱憤を晴らすかのように、信長は金ヶ森攻略後、京都へ向かうと見せかけて11日には瀬田に陣取り坂本侵攻を命じた9月12日比叡山を包囲した信長は麓の門前町・坂本の町に火を掛けて、次いで延暦寺塔頭(小寺院)や本堂、比叡山鎮守の日吉大社をも焼き払った。山上から逃れる僧侶はもとより、女子供まで容赦なく殺害しその数は数千に及んだと言われている。この所業を「神を恐れぬ」と世間は恐れおののいたという。信長の目的も、これは本願寺・一向一揆に対する見せしめであり、宗教勢力の封じ込めを狙ったものも云われている。

 しかし、昭和51年から8年に亘る発掘調査では、焼け落ちたとされる遺跡は、根本中堂、大講堂の2ヶ所で、その塔頭等の遺跡はなく、又僧侶たちもこの頃その殆どが坂本に居り、紅蓮の炎に包まれ、また男女3千人の斬首などはなかったというのが最近の定説である。主戦場はあくまで坂本だったとされる。

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2014年3月17日 (月)

春の花咲く6 雪柳

 当地、今日の最高気温予報は21℃。しかも朝から快晴。本当に春気分が充満してるといった感じである。やはりこの急激な変化には高齢者の体はついて行けない感じ。で、今日は満開に近い春の花・雪柳を紹介。
Photo  ユキヤナギ(雪柳)。別名コゴメバナ、コゴメヤナギ。原産は日本及び中国。関東以西に分布。花期3-5月。刈込後の芽吹きが良いので写真の如く、最近は花壇の縁取り生垣に植えて50cm高位に刈り込んでいるのが多い。自生種は絶滅危惧種となっている。
Photo_2  (接写)。これも葉に先立って咲く。花弁は5枚蕚片も5枚である。満開時には樹全体が小さな花に覆われてしまう感じと成る。活花としても古くから使われていたそうだ。花芽が9-10月頃出来るので、剪定はそれ以前にしておくとよい。
Photo_3  ピンクユキヤナギ(ピンク雪柳)。フジノピンクと云う品種。蕾と花弁の裏側赤みを帯びるが、花びらの、表側は白い。だから蕾の頃は全体がピンクだが、開花と共に、淡いピンクから白へと変化して行く感じである。

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2014年3月15日 (土)

争乱の戦国史110(織豊Ⅰ10): 信長包囲網

 姉川の戦いに勝利したものの、「止め」を刺せなかった信長には息つく暇もなかった。1570年7月21日(元亀元)、三好三人衆(三好長慶の臣:三好長逸、三好政康、岩成友通)が、一万三千の兵を繰り出し、摂津の中島に入り、野田・福島に砦を築いた。8月25日信長は岐阜を発して京都に入りこれを討伐するため先ず枚方に陣し、次いで天王寺に進み、野田・福島の砦を抜いて天満森まで進んだ。9月8日三好義次・松永久秀らも出動し、9月半ばには敵を摂津・海老江城に追い詰めるなど、畿内不穏の形勢となった。

 この時、石山本願寺の動静が怪しくなる。石山本願寺は河川に囲まれ、戦略的にも商業的にも重要な場所で、予て信長は石山本願寺の移転を求めていた。当然、本願寺第11世顕如は強くこれに反発し、浅井氏らと連携して、信長への反攻の機会を狙っていた。顕如は三好三人衆らと謀を通じ、浅井父子とも連携し、諸国に檄を発し兵を起こさせた。9月20日、門徒らは夜半に信長方の天満森の陣所を襲いこれを撃破した。自衛の挙兵の形式ながら、既に浅井・朝倉とも連携した信長包囲作戦であった。
 浅井・朝倉軍は信長の虚を窺い、兵を南近江にだし、9月20日には信長の属城・宇佐山に城将・織田信治(信長弟)、森可成を倒し、次いで長政らは坂本に陣し京都に肉薄した。京中の主要社寺には義景・長政の禁制が掲げられ、越前・近江勢に占領された観を呈した。連合軍は余勢を駆って京の将軍義昭の御所を窺い比叡山に着陣
 F110 これを聞き、信長は急遽本願寺勢との戦闘を切り上げ、京へ戻ったが、この時信長は身動きが取れなかった。比叡山着陣の浅井・朝倉軍は動く気配を見せず、膠着状態となる。本願寺の一揆勢の他、河内の畠山・遊佐両氏も敵対、周囲は敵だらけ。更には強力な僧兵軍団を擁する比叡山延暦寺を敵に回していた。
 11月には顕如の呼び掛けで蜂起した伊勢長嶋の一向一揆が、信長の弟・織田信興が守る尾張の小木江城を襲撃。城は落ち、信興は切腹。が、信長はこの報にも救援に向えなかった。
 追い詰められた信長は将軍・義昭を動かし、正親町天皇に和睦の斡旋を要請。天皇は朝倉義景に信長との和睦を命じかろうじて信長は窮地を脱した

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2014年3月14日 (金)

春の花咲く5 黄梅

 一昨日の暖かさから、雨のせいでもあるが、一転して今日は寒い感じである(最高気温予報11℃)。春先の気候変化の激しいことと、黄砂が飛んでくることが重なり、我が家の車はこの時期いつも汚れっぱなし。その上、小学校のグラウンドの近くだから、晴れた日でも、子供たちが昼休み、グラウンドを駆け回るので、その砂も飛んでくるわけだ。
 でも、小学生の甲高い声がよく聞こえて来るし、きれいなんだ合唱の声を聴いていると、それだけで楽しくなる。グラウンドの砂位は我慢する価値は十分にある。
 今日は2月頃より咲きだして今だに花をつけている黄梅を紹介。
Photo  オウバイ(黄梅)。中国原産。中国では旧正月に咲くので、迎春花とも言われる。日本には江戸時代初期に渡来。モクセイ科ジャスミン属だが、香りはない。鉢植えや盆栽にされるが、半つる性の低木なので、生垣にされていることが多い。花期は1-3月。
Photo_2  その花。花の形が梅に似ている事と、同じ頃に咲く故の名前だとか。この木も花が先に咲き、葉が遅れる故、写真の如く花だけの木である。花は黄色く筒状で先が6列している。最近は八重の花もあるという。

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2014年3月13日 (木)

春の花咲く4 ギンヨウアカシア

 昨日は今春最高の20℃近くまで気温上昇。友人たちと小高い山上にある温泉ホテルのグランドゴルフ場(7コースある)に行って、3コースを1ゲームとして3ゲームしてきた。久しぶりの好天で且つ暖かく、すっかり春気分を満喫して来たが、今日は一転、朝から雨で、なんとなくうすら寒い「奈良のお水取りの頃は寒くなる」とはよく言ったものだ。
 しかし、確実に春が進んでおり、いろんな花が咲き競っている。今日はその中で、ほぼ満開となったギンヨウアカシアを紹介。
Photo  ギンヨウアカシア(銀葉Acacia)。別名ハナアカシアフサアカシアに似るが、葉、花ともフサより小さく、花がギンヨウの方が密に付く。両者とも園芸店ではミモザと云うらしい。オーストラリア原産。日本には明治末期に渡来。樹高6~15mになる。尚、本当のミモザは全く別種の植物のこと。
Photo_4  。花期は2月中旬~4月。この木は3月に入って咲始め今満開。枝垂れた枝に一杯丸くて小さな花を咲かせている。この接写でお分かりの様に花は雄しべばかりの様な感じの花である。ギンヨウは花付きが良いので、庭木、街路樹、の他切り花としても使われる。最近はギンヨウが増えているようだ。

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2014年3月11日 (火)

争乱の戦国史109(織豊Ⅰ09): 姉川の戦い

 朝倉攻めでの浅井長政の裏切りに、信長は大きな衝撃を受けた。妹婿でもある長政に対する信頼は厚かっただけに、よもやの背反に信長に怒りはそれだけ大きく、信長は岐阜帰還後直ちに巻き返しの準備をした。
 1570年6月4日(元亀元)、六角承禎が南近江で挙兵すると、信長は柴田勝家や佐久間信盛らを派遣してこれを鎮圧、南近江の平定をほぼ完了した。続いて、6月19日、浅井氏の本拠地・小谷城を目指して信長が岐阜を出発。長政への怒りを晴らすべく、小谷の城下を徹底的に焼き払い、対決姿勢を露わにした。

 しかし、険阻な谷と池に恵まれ難攻不落の小谷城を攻めることは難しく、信長は木下藤吉郎やその家臣・竹中半兵衛を使って近江の国人勢力を調略により浅井氏から離反させ、一旦小谷から退くと近江国・坂田郡(現長浜市)の横山城を包囲した。横山城は北近江の中央を東西に流れる姉川の南の横山山中の城。信長は横山城を攻めることで浅井長政をおびき出そうとしたのである。長政が動けば朝倉も援軍を送って来る。これを一挙に叩き、浅井・朝倉連合を打破しようと考えた。信長の思惑通り重要拠点である横山城救援に、長政は城を出て姉川北岸に布陣した
F109  信長は徳川家康に援軍を求め、織田・徳川連合軍総勢三万が集結。一方朝倉も援軍を送り、浅井・朝倉連合軍二万に膨れ上がっていた。1570年6月28日早朝、徳川家康隊の先陣・酒井忠次の兵が朝倉勢を奇襲し、両軍の間での端が開かれた。「姉川の戦い」である。
 全軍を挙げて姉川を越えていった徳川部隊の善戦で、やがては朝倉勢の大半は戦場を敗走した。だが一方、長政自身が指揮する浅井勢は姉川を渡って信長軍に攻め寄せ、一時は信長本陣に迫る勢いをみせた。しかし、激戦の末、先に朝倉軍が潰走した情報が伝わると、浅井勢の勢いも止まり、形勢が急変。浅井軍も戦場を離れて、午後には決着がついて浅井・朝倉の残兵は小谷城へ敗走した。
 勝利を収めた信長は横山城に木下藤吉郎を残し守備を任せ、京都に戻って将軍義昭に戦勝報告。裏で信長討伐を画策した将軍への大きな打撃を与えた。

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2014年3月10日 (月)

春の花咲く3 桜桃満開

 東日本大震災が丸3年を経過した節目で、テレビ、新聞が一斉に「復興の状況」を報道している。しかし、現実を見ると、殆ど「復興未だ遠し」の状況のようだ。最大の問題は「住居」だという。環境整備や、基本計画の未完成によるが、既に着工できる状況でも、土木工事や建設工事の発注に対し、受注業者がいないという。関東地方中心のオリンピック向け工事が多く、工事費が上昇、故に震災地区での発注予定額では、何処も請け負ってくれないのが実情らしい。政府が復興担当大臣を作り、多額の復興予算を組んでも、それが動かない。
 いち早く着工すべき工事がどこなんだという明快な判断があれば、この状況を打開するのは政府の仕事じゃないのか。つまり政府がやるべきをやれてないと云う気がするが、如何であろう。
 今日は久しぶりに気温も上昇しそうで、春が一気に進みそうだが、そんな中ウオーキングコースにある桜桃(サクランボの木)が満開近くなっているので紹介。
Photo  オウトウ(桜桃)。所謂ミザクラ(実桜)と言われるサクランボの木。普通寒桜より若干遅く咲くが、ソメイヨシノより3週間位早く、今が満開。正式にはこれはセイヨウミザクラと云う名前。明治初期にドイツ人により北海道に伝わり、順次各地へ広がりながら、品種改良されたという。桜と同じサクラ属だが、種類が違う。
Photo_2  その。普通の桜とほぼ同じ花だが、色は白萼はやや大きく、蕊が長い自家受粉はしないそうで、この樹は毎年実をつけるので、近くに別の木がある筈だ。サクランボの木は現在1000種もあるといい、その殆どがセイヨウミザクラの種ではあるが、品種はいろいろらしい。夫々実の大きさや色が異なる。

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2014年3月 8日 (土)

争乱の戦国史108(織豊Ⅰ08): 朝倉攻略と浅野の裏切

 信長と将軍・義昭の関係は次第に険悪となり、義昭は将軍の名において信長追討の密書を諸国の大名に発した。この状況に即応したのが、越前・朝倉氏であった。元々守護大名・斯波氏の被官であった朝倉と織田であったが朝倉氏は直臣として誇り高く、陪臣身分の信長の台頭を苦々しく思い、しかも自分の庇護の元に在った義昭を傀儡として政権を左右する信長を放置できなかった。
 一方信長は、二度も上洛を促し義景を徴発し、「上洛命令に従わなかった」という理由で、1570年4月8永禄13)、越前・朝倉義景討伐の軍を起した。実際の戦争目的は朝倉氏の日本海海運拠点・敦賀港を奪う事と、越後の上杉謙信に対する牽制であったとも言われる。

 信長は伊勢の北畠信雄(信長次男)や松永久秀、徳川家康らの援軍を加え、約三万の軍勢を率いて、4月20日京都を出立。越前に入った信長軍は一気に敦賀を攻め、朝倉側の手筒山城を攻略。続いて朝倉一族の景恒の金ヶ崎城を襲い、わずか1日で落とすと、次いで朝倉本拠の一乗谷に迫った
F108  ところが越前攻略は時間の問題となった4月28日、信長の妹。お市を妻に迎えている浅井長政が、信長を裏切り朝倉支援のため挙兵した。裏切りの真相は不明だが、父・浅井久政の朝倉氏との関係重視に、長政が押されたとの説がある。(浅井長政像)
 三方を山に囲まれ一方が海の敦賀平野で、背後を長政に衝かれ、袋のネズミとなる信長即座戦闘放棄を決意して撤退した。僅か数名の護衛を従え、京都へ一気に逃げ帰ったと伝えられる。本隊も家康軍の働きもあり無事撤退完了すると、信長は態勢を立て直すために5月9日に岐阜への帰途に就いた・
 「金ヶ崎の退き口」と呼ばれるこの撤退戦で、殿(シンガリ)を務めたのが木下藤吉郎(秀吉)で、この働きにより彼は織田家中における地位を盤石のものにしたと言われる。

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2014年3月 7日 (金)

春の花開く2 ホトケノザ

 我が家のメダカの水槽に、メダカの排泄物等の掃除係として、3cm前後の南ヌマエビを四匹入れている。ところがここんところ暖かくなったせいか、これに子エビが生まれた5mm~1cm位の実に小っちゃいエビ5匹である。ようく見ないと判らない程だが、体は1人前の形をして、餌をあさっているいる姿は実に可愛い
 さすがに春だなあーと思っていたら、昨日から最高気温が10℃前後に下がり、今日は快晴となったものの、空気が冷たい。2月上旬の気温という。しかし、その冷たさに負けず歩いてみたら、いろんな花が蕾を膨らませ、或は満開近く咲いていた
 今日はその中でも、雑草の中で一番元気良く、沢山咲いているホトケノザを紹介。
Photo  ホトケノザ(仏の座)。半円形の葉が茎を囲んでつく様「蓮華座」に見立てた名前。茎は4角の珍しい草。別名「三階草」は葉が段々に付く故の名。日本では北海道以外で、道端の草叢や田畑に自生。アジヤ、欧州、北アフリカに分布。春の七草のホトケノザはこれと別種のタビラコの事である。
2  その花期2~6月と言われるが、実際には1月から咲き始め、又秋にも咲く。ご覧の通り、珍しい形の唇形状の花を付ける。よく見るとユーモラスな可愛い花だ。蕾のまま自家受粉して結実するのも多い。蜂が蜜を吸うため花の中に入ると、上唇(上の帽子のような部分の中の)の雄しべが下がり、蜂の背中に確実に花粉を付ける仕組みになっているそうだ。

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2014年3月 6日 (木)

争乱の戦国史107(織豊Ⅰ07): 信長、将軍と対立

 新たに擁立した将軍は、信長には単なる傀儡に過ぎない。信長の真意は、将軍の権威を利用しての権力拡大することだ。が、実際義昭が将軍であるためには信長の力が不可欠であり、義昭に何の力もない事も誰の目にも明らかだった。
 ところが、義昭は将軍となって暫くすると、自分の裁量で幕府を運営しようとし、豊・芸和睦や甲・越同盟など戦略家を気取って、上杉・大友・毛利の諸氏に御内書を出していた。これは義昭の考える天下一統の意思表示だった。
F107  このような動きに対し、信長は1569年正月14日(永禄12)、9ヶ条の事書(箇条書)と更に7ヶ条の追加からなる「殿中御掟」を信長の名において制定し、義昭にその袖に承認を意味する花押(袖判)をさせた。内容政務についての内奏は禁止する。、奉行衆に意見を問われたときは、是非の御沙汰があってはいけない、諸門跡・坊官・山門衆・医師・陰陽師以下が濫りに伺候してはならないなど政治活動を一切禁じたものである。(15代将軍・義昭画像)
 その上で、信長は義昭の御所の建設に諸国から役夫を上洛させる大工事を行い、信長自身がその工事の督励にあたった。更に続いて同月16日からは内裏の修理に掛かり、翌年までかかる大工事をした。しかし、これは信長自身の権威を示すものであった。かくして、上洛直後に信長に感激した義昭も、上記掟で将軍としての動きを縛られ、信長への不信感を露わにし始める

 こうして将軍との間に不和感を残したまま岐阜に帰った信長に対し、正親町天皇の「どうして俄に帰国したか」との奉書を以て、天皇の内意を受けて山科言継が岐阜に下向してきた。信長一辺倒の朝廷に対して、天皇の慰撫に応えるべく、1570年正月23日(元亀元)、信長は義昭との和解条件を提示した。
 その事書5ヶ条からなり:諸国への将軍御内書は信長の添え状を付けること。:従来の下知はすべて破棄すること。:公儀に忠節の者への恩賞は土地が無ければ信長分国内でも与える。:天下の議は信長に委任された以上、上意を待たず信長の分別で成敗する。:天下が静謐となったうえは禁中の儀は油断するべからず。と云うものであり、これによって義昭は全く政権から締出され、面目を完全に失墜。ついに信長への叛意は堅固なものとなったのである。

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2014年3月 5日 (水)

春の花開く  トサミズキ

 ウクライナ クリミヤ半島はきな臭い状況であるが、もう現在では昔の覇権主義では収まらないことはロシヤも重々承知の様であり、紛争拡大に至らぬように、プーチンさんの舵取りを願うばかりである。
 そんな危うい状況ではあるが、草木たちは、初春の花々を一斉に開き始めた。今日は少し早めだが、民家の庭に咲き始めたトサミズキを見つけたので、紹介。
Photo  トサミズキ(土佐水木)。これ、ミズキの名がついているが、ミズキ科でなく、マンサク科トサミズキ属だ。が水木科植物に似ている故の名前。原産地は日本(四国)で、土佐の蛇紋岩地に多いところからの名。海外へはシーボルトが紹介して、現在東アジヤ、ヒマラヤに10種ほど自生している由。
Photo_2  その。花色は黄~黄緑。下向いてぶら下るように咲く。花穂が長く伸び7輪前後の花を付ける。ご覧の様に雄しべの先端のが暗い紅紫色をしているのが特徴。他に、日向水木、霧島水木、高野水木などがあるが、花色は黄色だが、花の形が夫々違う。江戸時代から庭木や盆栽として親しまれている由。

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2014年3月 3日 (月)

開花し始めた花々6 寒桜

 一昨日歩いていて、2週間近く前から開花し始め、満開近くなった梅らしき樹に近づいて、よく見ると樹皮が桜であり、花ビラを見ると梅が丸いのに比し、これは先がやや尖がっている。この特徴から「これは桜だ!」と気が付いた。念のため、周辺の庭木も眺めながら歩いたところ、この周辺だけでも3本の同じ桜を見つけた
 早速帰って、手持ちの図鑑やインターネットで調べたところ、どうやら2~3月にかけて咲くオオシマザクラと寒緋桜との交雑種らしいとわかった。当初、ハナモモ、杏等類似のもの含めて検索したが、花の色、形、大きさ、開花時期等々すべてマッチするのが前記寒桜しか残らなかったわけである。似たものに山桜と寒緋桜の交配種もあるが色合いが違うようだ。
Photo  寒桜。これはイズタガアカという大島桜と寒緋桜の交雑種と推定している。同様に山桜との交雑種を含めると同様の1月末から3月初めにかけて咲く寒桜で地名や育種者の名を採った品種名の桜が8種類ほどあるようだが、これは花の色合い、大きさ、開花時期などから推定した。
Photo_2  その。この花は2月中旬から開花し始めたもので、現在満開で、雨に遇って少し散っている。初めはも少しピンク系が強かったが、徐々に白くなってきたものである。勿論遠目には殆ど梅と同じ感じで、梅と勘違いしてもおかしくない。

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2014年3月 1日 (土)

開花し始めた花々5 アロエ

 新聞の論壇で、最近の国会での「集団的自衛権」に関する論議に関連し憲法改正について『昔は非武装中立という理想論も語れたが、今はそんな自由はない。現実を見ろと言われ、平和憲法を守ろうという力がなくなりつつある。・・・・・ただ、今の政権で改正すればもっともっと不自由になり、国民を縛る憲法になる。自由のない自主憲法になるよりは、自由のある現在の押しつけ憲法の方がいい。形じゃないと語っている人がいる。この表現が今の改正論議のポイントをついている気がしたので紹介した。どうか国の指導者は方向を間違えぬ舵取りをやって頂きたいと切に願うところだ。
 3月になると同時に一気に春になった感があり、色んな花も一気に開花し始めた。今日はその内のアロエの花。
Photo  アロエ(Aloe)。これはキダチアロエ(木立アロエ)。日本にはもう一種アロエベラがある。後者は食用で、ワシントン条約で輸出入が禁じられているアロエの中で唯一輸出入が自由前者は日本では、九州、瀬戸内、伊豆、千葉に分布し観賞用である。勿論、葉内部のゼリー質は両者同じく食べれる。
Photo_2  その。年末ごろから蕾が立ってくるが、開花するのは今頃からである。この花近くで見たことはないが一つ一つは可愛い花である。葉肉のゼリー質は昔から「医者いらず」と言われたように、健胃効果や便秘に効く。外用では傷や火傷に塗ると早く治る。このためか、大概の家に1株は植わっている。

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