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2014年3月30日 (日)

争乱の戦国史114(織豊Ⅰ14): 室町幕府の滅亡

 1573年2月(元亀4)、武田信玄の西上を待つ将軍義昭は、信玄の発病を知らずなお強気で、この好機を逃すまいと各地の土豪や信長の敵対勢力を糾合し近江で挙兵に踏み切った。京都から近江にかけての同調者も蜂起した。
 一方信長は信玄と義昭に挟み撃ちにされるのを恐れ、窮地に陥り、義昭に和議を申し入れたが、3月にはそれまで信長に従っていた松永久秀や河内若江城の三好義継義昭に同調したので、強気の義昭は信長との和睦を突っぱねた
 業を煮やした信長3月25日岐阜を出発し上洛の途に就くと、義昭重臣の細川藤孝と荒木村重が逢坂まで迎えに出て義昭と決別した。29日に上洛した信長4月3日には京都郊外の村々を焼き払い翌4日上京に火を放ち町を全焼させ義昭の御所・二条城を包囲した。さすがに義昭もこれには驚き、正親町天皇に和議斡旋を願い出て、両者は応じて和睦した。

 信長は一旦岐阜に帰国し、武田軍の襲来に不安を感じながら、義昭との再戦の準備に入る。4月12日信玄病死。その風聞が畿内に流れ始めた5月22日、琵琶湖畔の佐和山城の丹羽長秀に命じ、湖畔で大船建造の開始をする。この船は兵員輸送用の船で2ヶ月足らずで完成した。
F114  対する義昭7月3日宇治川の中州にある槇島城に移り挙兵した。信長は出来上がったばかりの大船に兵を満載し佐和山を出て、琵琶湖を一気に渡って坂本に上陸すると12日には二条城を占拠。続いて16日には義昭が籠る槇島城を包囲すると義昭は為すすべなく降伏した。(:義昭御所跡出土の石仏群
 信長は義昭幼児・義壽(ヨシヒロ)を人質に取り、羽柴秀吉に命じて義昭を河内・若江城(三好義継在城)に送り届けさせた。この後、義昭は紀伊国・由良を経て備後の靹に逃れた。義昭は将軍の肩書はあり、公方と呼ばれ各地の大名らと通じて信長打倒を画策して、毛利の元で上洛の機会を窺った。
 しかし、15代将軍足利義昭の敗北により、室町幕府は中央政権としての実体を名実ともに失ったのであり、これを以て室町幕府は滅亡したと言ってよい。

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