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2014年3月26日 (水)

争乱の戦国史113(織豊Ⅰ13): 三方ヶ原の戦と信玄の死

 将軍義昭と信長の対立が表面化し始めると、甲斐・武田信玄の元には「上洛し信長を討て」との要請が義昭から来るようになった。この頃、信玄は隣国、相模・北条氏との戦闘が続き、これに応えられなかったが、1571年10月(元亀2)、北条氏康が病死し、氏政に代替りすると、同年12月かっての甲・駿同盟関係復活信玄上洛の条件がそろった
 武田信玄1573年9月末に山形昌景に別働隊を率いさせ、三河東部の徳川領に向け先発させ、自らは越前・朝倉氏や近江・浅井氏、石山本願寺とも緊密な連絡を取り、信長包囲網を強化しつつ10月3日甲府を発した。南進して遠江に入ると、二股城を取り囲み12月19日に落とすと、徳川家康の居城・浜松城に迫る
F113  城を守る家康は信玄の攻撃を待ち構えていたが、武田軍浜松城を回避。城の北方を西進し、三方ヶ原の台地に達した。これは日数を要する城攻めで兵を疲弊させるよりも徳川軍を誘い出して勝負する方が有利と見た作戦であった。一方家康の役割は、同盟者・信長のために信玄の西進阻止をする事だったから、12月22日、家康は信玄の誘いに乗り城を出て決戦にのぞんだ。
 信長の援軍のわずか3千が到着した事も家康を強気にしたが、家康軍は8千。対して武田軍は2万数千と言われ、勝ち目がなかったが、武田軍の背後から攻撃をかけた。三方ヶ原の戦いである。武田軍は直ちに応戦して徳川軍を打ち破り、徳川軍は総崩れとなった。援軍の将・平手汎秀はじめ多くの戦死者をだし、家康自身も命からがら浜松城へ逃げ帰った家康の生涯での最大の敗戦であったと言われる。図は敗戦の将のみじめさを生涯忘れまいと描かせた家康像である。

 一方武田軍はさらに西上を続け1573年(天正元)早々に三河に入り、野田城を攻めた。この城の厳しい守りに、金堀を使って地中を掘り進め、城中にの水を抜き、2月中旬には攻め落とした。しかし、この間信玄は既に発病していた。
 長篠まで進んだところで、信玄の病状が悪化し、西進を諦めねばならなかった。止む無く帰国途中の4月12日、伊那谷の駒場で53歳の生涯を閉じたこの信玄の死により絶体絶命の危機に直面していた信長は起死回生の幸運を掴んだのである

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