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2014年3月20日 (木)

争乱の戦国史112(織豊Ⅰ12): 将軍暗躍と織田・上杉同盟

 1572年(元亀3)、信長は暗躍を続ける義昭に対し、最後通牒とも云うべき「意見十七条」を突き付け、義昭の政治活動を厳しく非難した。さすがの義昭も武田信玄の他、浅井氏や朝倉氏、六角氏、中国の毛利氏、九州の大友氏とも連携を図り、信長排除へと動き出していた。
 その影響もあったか、同年には本願寺・武田信玄・朝倉義景・浅井長政中核になって反信長同盟が結成された。本願寺は三好義継・細川昭元らの畿内勢力の結集を進めた。松永久秀も加わり、東西南北からの包囲網が成立した。一方信玄も信長に焼き討ちされた比叡山と手を結ぼうとしていた。信長は絶対絶命の危機に陥った
F112  同年3月19日上杉謙信は、信長がこの危機を脱するためには信玄に先じて比叡山の再興を打ち出すこと。浅井と和睦すること必要だと、信長に勧めた。その上で謙信・信長・家康が申し合わせ信玄を討ち、以後浅井その他を討てばよいと言った。謙信が信玄を最も恐れていたことが伺える。(上杉謙信画像)
 同年7月信長は大軍をもって江北に出陣し、嫡男(信忠)の具足始めであったので、父子揃っての出陣で、今度こそ小谷城を攻略せんとの意気込みであった。江南の村々から人足を総動員して、虎御前山に堅固な砦を築いて、攻撃の拠点とした。
 これに対し、朝倉義景が救援の大軍をだし、7月末に江北に入ると、信長方の攻勢もそこまでで、砦を築いて9月半ば信長は撤退した。但し、8月8日、義景臣・前波吉継父子が裏切り信長の陣に入り、他の者もそれに続いた。朝倉勢には、先行き不安が醸成されていたという。

 信長が撤退したのは信玄に備える為であった。信長は謙信に救援を求め、11月には謙信の誓詞を届けた使者の面前で血判起請文を書き正式に同盟を成立させた。その謙信に対しては、北陸では越中・加賀の一向一揆が、関東では信玄と再び同盟した北条氏が攻勢をかけて、その動きを牽制した。

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