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2014年3月18日 (火)

争乱の戦国史111(織豊Ⅰ11):比叡山の焼討

 前年、正親町(オオギマチ)天皇の勅命で朝倉氏他諸勢力と和睦した信長であったが、1571年2月(元亀2)に再び行動を開始した。信長は浅井方の支城・近江の佐和山城を奪い丹羽長秀を城主に据えた。これは浅井との再戦に備えたもので、和睦数ヶ月で約束を反故にした。
F111  更に前年、弟の織田信興を失った伊勢長島の一向一揆に対しては、鎮圧のために武将の滝川一益を派遣した。8月には浅井長政の本拠・小谷城攻めを自ら指揮し、翌9月には南近江の金ヶ森で石山本願寺・顕如の呼びかけで蜂起した一向一揆鎮圧に当たっている。顕如の檄文で、信長への徹底抗戦の呼び掛け状)

 一方前年、浅井・朝倉連合軍が比叡山に籠って信長に敵対した際、これを支援した延暦寺に対しては、信長は比叡山の僧侶を招き、寺領の返還を条件に「味方するかせめて中立を守る」よう求め、「拒否した場合は全山を焼き払う」と威嚇した。しかし、比叡山はこれを拒否したばかりでなく、浅井・朝倉側に好意的な動きを見せた。信長軍は比叡山を包囲し兵糧攻めにしたが、睨み合いは3ヶ月に及び正親町天皇の調停で和議していた。
 今回はその鬱憤を晴らすかのように、信長は金ヶ森攻略後、京都へ向かうと見せかけて11日には瀬田に陣取り坂本侵攻を命じた9月12日比叡山を包囲した信長は麓の門前町・坂本の町に火を掛けて、次いで延暦寺塔頭(小寺院)や本堂、比叡山鎮守の日吉大社をも焼き払った。山上から逃れる僧侶はもとより、女子供まで容赦なく殺害しその数は数千に及んだと言われている。この所業を「神を恐れぬ」と世間は恐れおののいたという。信長の目的も、これは本願寺・一向一揆に対する見せしめであり、宗教勢力の封じ込めを狙ったものも云われている。

 しかし、昭和51年から8年に亘る発掘調査では、焼け落ちたとされる遺跡は、根本中堂、大講堂の2ヶ所で、その塔頭等の遺跡はなく、又僧侶たちもこの頃その殆どが坂本に居り、紅蓮の炎に包まれ、また男女3千人の斬首などはなかったというのが最近の定説である。主戦場はあくまで坂本だったとされる。

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