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2014年3月 8日 (土)

争乱の戦国史108(織豊Ⅰ08): 朝倉攻略と浅野の裏切

 信長と将軍・義昭の関係は次第に険悪となり、義昭は将軍の名において信長追討の密書を諸国の大名に発した。この状況に即応したのが、越前・朝倉氏であった。元々守護大名・斯波氏の被官であった朝倉と織田であったが朝倉氏は直臣として誇り高く、陪臣身分の信長の台頭を苦々しく思い、しかも自分の庇護の元に在った義昭を傀儡として政権を左右する信長を放置できなかった。
 一方信長は、二度も上洛を促し義景を徴発し、「上洛命令に従わなかった」という理由で、1570年4月8永禄13)、越前・朝倉義景討伐の軍を起した。実際の戦争目的は朝倉氏の日本海海運拠点・敦賀港を奪う事と、越後の上杉謙信に対する牽制であったとも言われる。

 信長は伊勢の北畠信雄(信長次男)や松永久秀、徳川家康らの援軍を加え、約三万の軍勢を率いて、4月20日京都を出立。越前に入った信長軍は一気に敦賀を攻め、朝倉側の手筒山城を攻略。続いて朝倉一族の景恒の金ヶ崎城を襲い、わずか1日で落とすと、次いで朝倉本拠の一乗谷に迫った
F108  ところが越前攻略は時間の問題となった4月28日、信長の妹。お市を妻に迎えている浅井長政が、信長を裏切り朝倉支援のため挙兵した。裏切りの真相は不明だが、父・浅井久政の朝倉氏との関係重視に、長政が押されたとの説がある。(浅井長政像)
 三方を山に囲まれ一方が海の敦賀平野で、背後を長政に衝かれ、袋のネズミとなる信長即座戦闘放棄を決意して撤退した。僅か数名の護衛を従え、京都へ一気に逃げ帰ったと伝えられる。本隊も家康軍の働きもあり無事撤退完了すると、信長は態勢を立て直すために5月9日に岐阜への帰途に就いた・
 「金ヶ崎の退き口」と呼ばれるこの撤退戦で、殿(シンガリ)を務めたのが木下藤吉郎(秀吉)で、この働きにより彼は織田家中における地位を盤石のものにしたと言われる。

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