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2014年2月

2014年2月28日 (金)

争乱の戦国史106(織豊Ⅰ06): 信長、キリスト教を許容

 1569年4月8日(永禄12)、信長、宣教師ルイス・フロイスに面会し、その京都居住を許し、かってのザビエルの願いが本格的に達せられた。
 それまでの間のキリシタン伝道を概観すると、北九州のザビエルの普及は著しいものがあり、9年後1559年10月(永禄2)、ガスパル・ビレラが比叡山の僧侶の招きにより入京している。ビレラは比叡山には入らず京都で大道説教を試み、群集の嘲笑や僧徒の迫害に屈せず布教の結果、三好長慶の庇護を得て、翌年(1560年)将軍・義輝から布教認可を得た。信長が桶狭間に勝利した年である。
 ビレラは1561年(永禄4)堺で布教し仏教非難に及び、叡山僧徒の反対にあったが、三好長慶らのとりなしで、事なきを得た。更に1565年正月(永禄8)には新しく平戸から宣教師ルイス・フロイスが到着し、将軍義輝及び夫人から厚遇を受け、高山右近親子らも信徒であった。然るに、同年5月将軍義輝が松永久秀らに弑されて、京都の法華宗徒らが三好党に迫り、キリシタンを禁じ、宣教師追放令が出たフロイスは堺に退いた

 このような経過で信長のキリシタンに対する態度は注目された。信長は摂津芥川城主・和田惟政の紹介で、フロイスとの会見を一度は拒否したが、再度の勧めで引見した。最初の引見拒否は、外国人の引見礼儀が判らなかったこと、信長が洗礼を希望しているとの誤解を恐れたことなどと言われる。しかし、面会してみると、信長からの一方的な質問攻めであったらしい。
F106  結果、フロイスには要望通り、全く無償で朱印状を与え、会堂を引き渡した。かくしてフロイスは布教認可を勝ち取ったが、信長はどのような意図を秘めていたのであろうか。考えられる理由は彼自身の「かぶきもの」的猟奇趣味もあったと思われるが、仏教僧侶への対抗的役割を持たせようとしたと考えられる。その点では山門や一向一揆を敵視した信長の信仰は法華宗に近かった。(:当時の洋風の若者(徳川美術館蔵))
 この点も少し明快に整理すると、以下の様に言われている。
①異邦人や西欧に興味と関心を持ち、新知識を積極的に取り入れようとした。
②ポルトガルとの貿易により、富国強兵を実現しようとした。
③そのため、鉄砲や火薬輸入を盛んにし、宗教上比叡山・本願寺勢力と対抗させ、
  寺院勢力を抑止しようとした狙いがあった。

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2014年2月27日 (木)

開花し始めた花々4 ノースポール

 愈々春だ!というこの時期に、政治の世界では風雲急を告げる態を見せている。一つは「エネルギー基本計画案」を巡り、自公が党内論議に着手したが、党内も脱原発論多く、紛糾しているようだ。国民の多くが脱原発を願っているであろう中で、一部存続を容認する方向に向けたい政府としては、地ならしとしての論議としたいところだろうが・・・・。
 も一つは、集団的自衛権の問題。政府は憲法解釈の変更でこの自衛権を行使したいのであろうが、過去歴代の内閣が憲法改正の必要を認めてきたが、憲法改正問題が容易でないと見たのか、現政権は解釈変更で対応可能と言い出して、これも異論多く容易に容認はされないだろう。何れも非常に重要な課題であり充分な論議と、国民の意志を問うべき問題であろう。
 そんな難しい問題の中でも自然は間違いなく春に向かっていろん花を咲かせている。
Photo  ノースポール(North Pole)。この名はサカタのタネの商品名が一般化したもので、正式名(学名)はクリサンセム・パルドサムという。アフリカ北部、欧州南部辺りが原産地で、日本には1960年代輸入された新しい花。日当たりを好み、湿地を嫌う。寒さに強いが霜や寒風には弱く葉を痛めるそうだ。
Photo_2  。マーガレットに似た白い花1茎1花。3、4月頃になると一面の白い花となるのでこれから連想してノースポール(北極)と名付けられた由。中心の黄色い部分は管状花。秋撒きの場合に2月ごろ開花し6月位まで咲くが、暑くなると枯れてしまう。今は未だ咲始めの状態。

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2014年2月26日 (水)

争乱の戦国史105(織豊Ⅰ05): 信長の堺制圧

 信長は、従来の土地の支配と土地を媒介とした主従制・知行制を骨格とした封建制から、金融・流通を重視した体制への移行を構想し、先ず海=水運の支配を志向したとの見方がある。信長は濃尾掌握後、まず1568-1569年(永禄11-12)、尾張・伊勢を結ぶ伊勢湾の掌握に乗り出した。次は、近江の掌握である。琵琶湖を控えた交通の要衝であり、北には若狭・日本海へのルート、南西には大阪湾・瀬戸内水運に通ずるこの要衝を押さえた。そして、京に入ると同時に瀬戸内水運の喉元・堺の支配権を握った。畿内制覇後、更なる発展に必要な莫大な軍事費を生み出す戦略を推し進めたと見られる。

 信長は畿内平定直後の1568年10月(永禄11)、摂津・和泉に矢銭(軍事費)を課し、奈良には札銭・家銭を課した。摂津では石山本願寺に5千貫、堺に二万貫を課したが、大和法隆寺に家銭、その他にも制札を意味する札銭を要求した。
 堺以外はこの課銭に応じたが、堺は拒否した。堺は会合三十六人衆による合議制の自治をしており、専制的圧力に強く反発したのである。能登屋・臙脂屋(ベニヤ)を大将として三十六人衆が諸浪人を集め、北の口に菱を撒き、堀を深くし、櫓を組んで合戦の用意をした。しかしこのの信長の態度は柔軟で、慎重だった。
F105  ところが、この年三好三人衆が堺を根拠地に、三好義継を近くの和泉家原城に攻めて陥れた。更にあけて1569年正月(永禄12)三好衆が京都の義昭を本圀寺に囲んだ。翌日、義昭は池田勝正らに助けられ、三好衆は撃退したが、この飛報を聞いた信長は、松永久秀を伴い入洛し、今回の三人衆を助けた堺の富豪らを責め、南北堺の焼き払い、老若男女の薙切りという信長の威嚇の前に市民の動揺は大きく、疎開や避難が相次いだ。そして向後はかような事なきようにすると三十六人衆が誓約して、二万貫を上納した。こうして信長は堺を完全な支配下に置いた。(は信長が用いた「天下布武印」
 堺の豪族、納屋衆(海岸倉庫を有する豪商)の今井宗久は、前年信長入京の翌月、自家秘蔵の茶器「松島の壺」と「紹謳の茄子」を献上して信長に結びつき、千宗易は宗久の推薦で茶道者として信長に仕えることになった。信長の軍兵は、同年2月29日摂津尼崎にも矢銭を課した。軍兵三千をもっての強要である。ここでも、尾張衆と尼崎衆の間で合戦があり、尼崎は30人ばかりは討ち取られ、四町悉く放火された。こうして港津。尼崎も支配下に入ったのである。

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2014年2月25日 (火)

開花し始めた花々3 ベニバナアセビ

 当地福岡では、予報通り気温も上昇し(14-15℃)、まばゆい陽光でもうすっかり春気分。しかし、一方関東以北はまだ寒く、先日の大雪被害が未だに回復してない山梨、埼玉、群馬などの山間部の状況は痛ましい
 今朝の新聞によると、ビニールハウスの倒壊などでの農産物被害は、群馬が247億円以上、埼玉が71億円の推計とある。農家の人の話がテレビ放映されていたが、20cmの積雪に耐えうるハウスだったそうだ。それが60cmを越えたという。天災とは言え、気候に支配される農業の難しさを改めて感じる。
 そんな中、当地では春の花が次々と蕾を膨らませ、春の到来を告げている。その中で今日は私も初めてのベニバナアセビを紹介。
Photo  ベニバナアセビ(紅花馬酔木)。例の馬が食べると酔っぱらったようになるという馬酔木(アセビ)(白い花)の紅花種である。ウオーキング途次の民家の庭に咲いていた。原産地は関東以南の本州、四国、九州。別名アケボノアセビ。日向で育ちやすい由。葉が小さく鉢植えも人気があるという。
Photo_2  ベニバナアセビの。スズランの様な小さなつぼ形の花が下向いて咲く。写真はまだ蕾が多く漸く開き始めた花。葉や茎にはアセボトキシンという有毒物質を含み、上記のように馬が酔ったようになるというが、普通動物は食べないそうだ。食べなければ、園芸上は一般家庭でも問題ないという。

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2014年2月24日 (月)

争乱の戦国史104(織豊Ⅰ04): 信長、宿敵信玄と同盟

 信長は東国を三河の徳川氏に委ね、中央の経路に当っていた。その東国には越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康の三大勢力が並び立ち、その間に今川義元の後継の氏真が駿河・遠江両国を領して介在している。
F104  この状況下で最も意欲的に活動していたのは甲斐の武田信玄であり、北に南に或いは東西にと兵を動かした。1568年(永禄11)信長が上洛を果たした直後、武田信玄は甲府を発して駿河・今川館に攻め入り、徳川家康遠江に入って井伊谷、刑部(オサカベ)などの諸城を抜いた。双方の軍事行動は、大井川を挟んで、駿河は武田、遠江は徳川が抜き取る約束「国切の御約束」)が信玄と家康の間で成立していた事に基づく。かくして信玄は駿府を占領し、氏真は遠江掛川に逃れた。(武田信玄像
 この時、相模の北条氏康・氏政親子は、今川氏真に嫁した氏康の息女が「必死の躰で」のがれたことで、「この恥辱そそぎ難し」とし、氏真を救け、信玄に敵対した。同時に今川氏からと北条氏から「越・相一和」の議を上杉輝虎(謙信)に乞い、1569年2月(永禄12)越・相の講和交渉に入った。
このような越・相の和睦交渉は、甲州の武田信玄を挟撃し苦境に立たせた。武田と結ぶ織田信長としても黙視することが出来ず、時を同じくして義昭・信長より謙信に対して、「越相和睦」が勧説され、同年閏5月謙信・氏康の間に和議が成立した。

 信長はかって遠山友勝(信長の娘婿)の女を養女とし、武田四郎勝頼に嫁入りさせていたが、出産後死亡したので、縁切りを恐れてか1567年11月(永禄10)、信玄の六女お松嫡男の正室に迎えている。元々武田氏は今川氏と深い婚姻関係で2代に渡る縁続きだったのだが、桶狭間後は断絶していた。そうした時織田氏が武田氏と同盟関係を結ぶに至ったのである。信長は信玄の変化を極めて的確に把握し、パートナーとして取り入れるのに成功したのである。 

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2014年2月23日 (日)

開花し始めた花々2 枝垂れ梅

 昨日から急に気温が上昇し始め、昨日9℃だったが、今日は14℃。明日、明後日と上昇し水曜には16-17℃予報となっている。急激な気温上昇だが老人にとっては暖かいことは何よりだが、毎年この季節、霞と見紛う黄砂が飛んでくる。それが、今年はPM2.5の警報が伴い、その上アレルギー性鼻炎である小生にとっては各種花粉が飛び交い、外出時のマスクが息苦しい嫌な時期でもある。
 何はともあれ、これから一気に花々が開花して行く。次々と新しい花が咲き始めるこの時期が一番うれしい時期でもある。取り合えず、今日は枝垂れ梅。
Photo  シダレウメ(枝垂れ梅)。普通の梅より、1週間~10日遅れで咲く枝垂れだが、もう満開状態だ。最近は庭木にこの紅梅系の枝垂れを植えている家が多く、最近の流行のようだが、日当たり、風通し、樹齢などの条件だろうが、まだまだ蕾の樹も多い。従って結構長期に梅が楽しめる。
Photo_2  シダレの。花は普通の梅と同じで変わらないず、香りも梅特有の”馥郁たるいい香り”がするいわれる。ところで、この馥郁とは?。先ず「馥」とは良い香り、香気の意、ついで「郁」とは暖かい、或はアヤの意からこれも香しい、さかんな香気の意がある。だから「馥郁たるいい香り」とはいい香りを3つもかさねて「いい香り」と言っているのである。

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2014年2月20日 (木)

争乱の戦国史103(織豊Ⅰ03): 織田信長 上洛

 1568年7月(永禄11年)、織田信長は越前の朝倉義景の元にいた足利義昭を美濃に迎え、9月7日遂に上洛の途に就いた。信長35歳であった。義昭を将軍に就け、室町幕府を再興するという名分であった。尾張・美濃・伊勢の軍勢4万とも6万とも伝えられる大軍を率いて、近江の琵琶湖畔東岸を南下すると、敵対していた観音寺城を居城とする六角承禎(義賢)・義治父子を戦わずして敗走させ、わずか1週間で近江を平定後、9月26日には京都に入った
F103  引き続き、三好三人衆(三好長慶の家臣だった三好長逸、三好政康、石成友通)の城を攻めるため軍を進め桂川を越え山城勝竜寺城を落とした。更に摂津に入り芥川城・越水城を攻略し、わずか10日余りで三好三人衆を掃討・敗走させた。又、池田城の池田勝正は人質を出し降伏。尚、丹波を支配していた松永久秀は自ら信長の元を訪れ、恭順の意を表して、大和の支配を安堵された。そして京の西の出口を押さえておいて、義昭と共に10月14日には京に戻った。こうして信長は岐阜を進発して以来、わずか1ヶ月で畿内を平定したのである。(は柴田勝家筆と伝わる信長像(摠見寺蔵))

 1568年10月18日(永禄11)、義昭は念願かなって15代将軍に就任し、併せて従4位下、参議・左近衛権中将にも叙任された。此れに感激した義昭の信長への信頼は絶大であり、感謝のしるしとして、信長副将軍か管領にしようとしたが、信長はこれを辞退した。それではと、近江、山城・摂津・和泉・河内の5ヵ国を望み次第に知行せよとの話も断った。
 代りに、信長が義昭に願い出たのは、商業都市の堺と近江大津・草津に代官を置き、直轄地とする事だった。そして翌年、信長はこれらを支配下に置いたのである。
 義昭の将軍就任をみて、戦後処理を一段落させると、信長は10月26日はあっさりと岐阜に引き上げた。しかし、翌1569年1月5日(永禄12)、態勢を立て直した三好三人衆義昭を襲撃する事件が起き、信長は直ちに援軍を差し向け、最上洛して三好勢を鎮圧する。だが、三好勢の資金源が堺だったことを知り、信長は二万貫を献上させ、奉行を置き軍資金や鉄砲、各種情報の入手先とした
 その一方で、信長は義昭の新御所の造営に着手し、陣頭指揮を執って贅を尽くした城郭が落成し、義昭が居を移すまで、2ケ月の突貫工事で完成させたのである。

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2014年2月19日 (水)

開花し始めた花々1 木瓜

 今日は快晴となり、もう春気分が一杯と言う感じ。しかし、埼玉、山梨では雪に覆われ、道路が交通遮断され、送電線がやられ、停電が続いて全く孤立した村落が30を超えると報じられている。食糧が無い、暖房手段がないという悲惨な状態の所もある様子。政府もこの雪被害の実態を把握するのが遅れたようすで、対策本部をやっと立ち上げた状態である。
 バリ島における5名の救助活動に比し、既に21名の死者を出している雪被害の救助活動の政府対応のぬるさは如何したものかと、不思議にさえ感じる。
 このような状況ではあるが、春は間違いなく近づきつつある。従って、今回からは順次蕾を膨らませる花々を見て行く。今回は先ず木瓜。
Photo  ボケ(木瓜)。果実が瓜に似ており、木瓜と書いて、モケ或いはボックワと呼ばれたものが転じてボケとなった由。小枝に棘があるので嫌う向きもある。庭園樹としてよく利用されるが、添景樹として花観賞用に植えられる。陽光を好み、移植は容易だが、大気汚染には弱いという。
Photo_2  木瓜の。葉が出る前に花が咲く。花色は淡紅、緋紅、白と紅の斑、白などがある。寒中の1月頃より花を付け始め、3月頃から満開となる。

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2014年2月18日 (火)

争乱の戦国史102(織豊Ⅰ02): 細川幽斎の人物列伝

 細川幽斎は戦国時代に4人の主君に仕え、いつも脇役ながら節目節目の転換期には必ず大きな活躍をした人物故、ここで彼の人物列伝を1項としておく
 細川幽斎(藤孝)1534年(天文3)、足利家の家臣・三淵晴員(ハルカズ)の次男に生まれ、6歳の時細川元常の養子になった。剣法塚原卜伝に学び武道の達人だった上に、若くして歌道や連歌の道に入り「古今伝授」を受けた。(古今伝授とは古今和歌集の解釈に関する秘説を伝承する唯一の特別資格者)。更に茶道、料理、音曲、刀剣鑑定、有職(ウショク)故実などの奥義を極めた、当代随一の文化人であった。
F102 勿論武人としても優れていて、1573年(天正元)40歳になった幽斎は長年仕えた15代将軍・足利義昭の元を去り、息子・忠興と共に織田信長(40歳)の家臣となった。1565年(永禄8)に、幽斎は松永久秀に興福寺に幽閉された義昭を救出し、更に同僚の明智光秀と共に義昭の上洛を計画。信長の支援を受け、1568年(永禄11)遂に義昭を将軍に就任させた。しかし、義昭は自分が信長の道具に過ぎないことを悟り、反信長姿勢を強め、幽斎の諫言にも拘らず、同年信長打倒の兵を挙げるに至り、止む無く決別を決意した。(細川幽斎画像(天授庵蔵))。
 幽斎がしたたかであったのは、1582年(天正10)信長を倒した光秀が幽斎に援護要請をした時だった。光秀の娘・お玉は幽斎の息子・忠興の妻だったが、幽斎親子光秀の援軍要請を拒否、忠興は一時お玉(ガラシャ)を離縁までした。そして、光秀を討った豊臣秀吉には幽斎は背かないことを誓い、豊臣政権では重要な役割を担う。

 秀吉死後は、徳川家康に接近1600年7月(慶長5)関ヶ原の前哨戦では、丹後の田辺城で西軍の大軍を迎え撃つ。田辺城に籠城した細川勢は、わずか500人で1万5000人の大軍の攻撃に耐えた。この時の幽斎も死を覚悟し、古今伝授の証書は教え子の智仁親王に贈った。親王は後陽成天皇に幽斎救助を願い出て、天皇勅命により、幽斎は田辺城を開城した。しかしこのため、包囲した西軍にとっては時遅く2日後の関ヶ原には間に合わなかった。この西軍を60日間足止めした功績を家康は大いに称賛し、望みの土地を与えようとしたが、幽斎はこれを固辞し、文人としての余生を楽しんだという。しかし、この時、幽斎は「古今伝授」を楯に身を守ったと評する歴史家もいる。古今伝授がある限りこれを攻めるのは出来ないとの計算もあったという。幽斎の孫・忠利は熊本城主となり明治まで続いた。(元首相・細川護煕は18代当主)

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2014年2月17日 (月)

冴返る早春の風景8 早春の草花5

 もう春だと云うのに、このタイトルがいつまでも使える列島の気象状態山梨の甲府市は114cmの降雪があり、160年ぶりの大雪だとか。交通網が全く遮断され陸の孤島状態に陥っている。これに追い討ちをかけるが如く、今日の午後から再び天候は下り坂の予報。関東・東北地方の大雪が懸念されている。
 そのような天候の中で仄かに春を期待させる、寒さの中に春を感じさせることを季語では春めく、或は春動く、春兆すと表現する。この時期を詠んだ句と共に、寒さの中で咲いている草花・野げしを紹介。
 春めくややぶありて雪ありて雪(一茶) 小野の鳶雲に上がりて春めきぬ(蛇笏)
Photo ノゲシ(野芥子)。日本各地の道端、畑に自生。欧州原産で、日本には麦と共に渡来した史前帰化植物。葉がケシに似る故の名。葉に棘があるが、柔らかく痛くない。薬草として、五臓六腑の邪気を払い、心を鎮め、気力が充実し、老化を防ぐ滋養強壮の効があるという。年寄り向きの万能薬か。
Photo_3 野げしの。タンポポに似た花で、ケシとは無関係のキク科の花。健康茶としては全草乾燥し、煮出して服用する。又食用としても若芽、若葉天ぷら、サラダに、茹でた茎、葉はおひたし、和え物、油いために使える。旨い苦みが好まれるという。春から秋まで殆ど年中花を付けるので、一度お試しあれ。

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2014年2月15日 (土)

争乱の戦国史101(織豊Ⅰ01): 信長、天下布武を旗印に

 今回より、足利義昭を奉じた信長が天下を目指す時代になるので、一般的日本史の時代区分とは異なりますが、「織豊(時代)」(安土桃山時代)とします。その内、信長が室町幕府に代わる統一政権を目指す時期織豊Ⅰとします。

 1565年(永禄8)、14代将軍・足利義輝が松永久秀、三好三人衆に殺害され、実質的に幕府が滅亡すると、出家していた弟・覚慶は興福寺に幽閉されたが、幕臣・細川幽斎(藤孝)らの助けにより脱出に成功し、還俗して「足利義秋」と名乗り、幕府再興を目指す。
 しかし、義秋が身をよせた南近江の六角氏は三好方に内通し、ついで頼った女婿の若狭武田氏も内乱続きだった。その後、越前の名門・朝倉義景の元へと移り、元服して名を義昭と改めたが、義景の腰は重く、兵を挙げようとはしなかった

 この頃、明智光秀は朝倉義景に仕えていたと云われ、義昭が新たな庇護者を求めて近江の浅井長政の元を経て美濃入りし、信長を頼ろうとした際、明智光秀が義昭の側近である「昵懇衆」の地位を得ていて、信長への紹介をし、且つ自分を信長の家臣とするよう義昭に推挙させたと言われる。
F101 一方、1567年(永禄10)に美濃の斎藤龍興を追放し、稲葉山城を岐阜城と改めて居城とした織田信長は、楽市楽座など経済政策を施す一方で、朱印状に「天下布武」印文を使い始めた。これは「武力によって日本を治める」意味で、信長の天下統一に向けた決意表明でもあった。当然上洛を念頭に入れていた信長にとって、義昭というカードを手に入れることは、上洛の大義名分を得ることであったので、朝倉から義昭を引き取り、共に上洛の決意を固める。(図は安土城5階・八角の間の内陣(復元)。信長の館提供)
 信長は早速甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信ら各地大名に対し、義昭を奉じて上洛することを通知。彼らの動きを牽制しつつ上洛戦の準備を始めた。既に1567年8月(永禄10)、かねてより伊勢、近江の経営に腐心していた信長は桑名に出て、楠、高岡両城を攻め落とし、翌年再び北伊勢に侵入、神戸友盛と和議、三男信孝を養子に入れた。又長野氏は弟・信包が襲封、残りは滝川一益に束ねさせ、伊勢を固めた
 又上洛途上にある江北の浅井長政と同盟を結び、妹・お市を嫁がせた。更には、奈良の興福寺の衆徒・国人や三好三人衆と対立した松永久秀、江南の国人らにも味方に付くよう働きかけている。

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2014年2月14日 (金)

冴返る早春の風景7 早春の草花4

 掲題の冴返る早春がピタリの冬型気圧配置の勢力はなかなか衰えず、昨今は南岸低気圧と言う気象状況で、列島南岸に低気圧が居座り、太平洋側に大雪をもたらしている。
 前回と同じくこの時期を云う季語に、「二月」というのがあり、 竹林の月の奥より二月来る(飯田龍太) 梅壇のほろほろ落ちる二月かな(正岡子規) の様な句も沢山ある。
 この寒さの中でも、早春を告げる草花は元気に開花している。今日もその一つ、白花タンポポが、南面向きの陽当たりのいい場所には咲いていたので、それを紹介。
M シロバナタンポポ(白花蒲公英)。日本在来種で、関東以西、四国、九州に分布し、西ほど多い。花期は2-5月花頭(花に見える部分)は3cm位カンサイタンポポ(黄色い花)とケイリンシロタンポポ交雑によりできた種。黄色のタンポポは外来種で1904年北海道での発見が最初でそれまで国内は白タンポポばかりだった由。
 M_2
 下接写の白い部分舌状花(頭花を形成する一つ一つの小さな花)の花冠(花弁)で、中央の花柱部は黄色である。舌状花は頭花に凡そ100個程で、他のタンポポより少ないため、単為生殖(交配なしで種子を作る)で増えるという。

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2014年2月13日 (木)

争乱の戦国史100(室町Ⅳ: 大友・島津 九州覇権の戦い

 九州に割拠した群雄の中で先ず頭角を現したのは、陶晴賢に殺害され没落した大内氏に代って、大友宗麟であった。中国地方の覇者にのし上がった毛利元就1559年(永禄2)、豊前に侵略の手を伸ばし、1561年(永禄4)~1564年(永禄7)の間にも、大友・毛利間では激しい闘いがあり、或は将軍仲介の和睦(豊芸和睦)など繰り返した。
F100 1569年(永禄12)には北部九州にて毛利家の吉川・小早川隆景らが侵攻したが、大友軍の立花道雪の活躍に圧倒された毛利軍は領地獲得も出来ず、又、この時尼子氏の残党にも足元を揺るがされたため、毛利軍は撤退して、大友軍の勝利に終わった。また、北九州の菊池氏や少弐氏下剋上で滅亡した結果、代って大友宗麟(義鎮(ヨシシゲ))が勢力を拡大した。そして宗麟は九州北部の豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の6ヶ国の守護に任じられ、大友氏の全盛期を築き上げたのである。(図は「図解戦国史(成美堂出版)」)より

 これに対し、南九州では島津氏が台頭した。今津氏は薩摩・大隅・日向の守護職をつとめる家柄で、家督相続を巡って一族間に抗争が生じていたが、1550年(天文19)に島津貴久鹿児島に入城して決着。以後、子の義久と共に薩摩・大隅の統一事業を進めた
 1566年(永禄9)に家督を相続した島津義久1578年(天正6)に日向で大友宗麟と激突した。宗麟は島津のの拠点・高城を攻撃したが、島津の反撃をうけて敗走。耳川(現宮崎)に追い詰められ、壊滅的な打撃を受けた。これを「耳川の戦い」というが、この合戦をきっかけに大友氏の衰退がはじまり、宗麟に抑え込まれていた肥前(現佐賀)の竜造寺隆信が離反。当主の隆信とその義弟・鍋島直茂は2度にわたり大友軍を退け、肥前を平定して領国を拡大し、その名を挙げた。
 かくして、九州はこれら3大勢力と情勢の変化で立ち位置を変える有馬・相良・阿蘇氏などの小勢力の時代へと突入して行く。

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2014年2月12日 (水)

冴返る早春の風景6 早春の草花3

 オリンピック、健闘して4、5位にはなるが、なかなかメダルが来なかった。が、昨夜スノーボ-ドで、平野、平岡選手が銀、銅をもたらしてくれた。オメデトウ!
 立春を過ぎた途端に寒気が続く。この状態を季語では余寒、春寒などという。鎌倉を驚かしたる余寒あり(虚子) や 春寒や竹の中なる銀閣寺(龍之介) のがあるが、暖かくなるはず時期なのに未だに寒い!という、やや恨みがましい天候が続いている。
 この様なときでも、草花は寒さに耐えて花を付けている。前回に続き今日もちっちゃなを付けてるナズナを紹介
Photo ナズナ(薺)。別名ペンペン草、或は三味線草。田畑や道端など至る所に生える。麦の栽培と共に渡来した史前帰化植物。花期は2-6月。夏には枯れるから夏無(ナツナ)とか、撫でたいほど可愛いから来たなど名の由来には諸説ある。別名の由来は花後の実が三味線のバチに似る、或は鳴る音から。
 Photo_2
 下ナズナの。白い花弁を4枚持つ。3㎜未満位の小さな花を、花穂に沢山付けている。次々と先の方に花を付けて行き、花が終わると種子をつけると同時にさらに先端には蕾を形成し、開花してゆく。写真の如く、よく見ると綺麗な花である。この草は民間薬として陰干しで煎じたり、煮詰めて、肝臓病、解熱、下痢・腰痛・便秘の解消等広範囲の病気に効く優れた薬草である。春の七草に入っている所以だろう。

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2014年2月11日 (火)

争乱の戦国史99(室町Ⅳ39): 長宗我部氏四国制覇へ

 応仁の乱後、紫国の阿波・讃岐・土佐の守護であった元管領・細川氏も三好長慶・松永久秀に力を奪われ、阿波守護であった細川持隆1552年(天文21)長慶の弟・義賢に圧倒され自殺し、細川家は滅んだ。代って土佐を中心に長宗我部氏勢力を伸ばした
 長宗我部氏は初め、細川氏のもとで力を蓄えていたが、1508年(永生5)には国人の反乱で当主・兼序(カネツグ)が殺された。この時、子・千雄丸は未だ幼少であったが、一条房家のもとに落ちのび、10年後元服し国親と名乗り、房家の計らいで岡豊(オコウ)城に帰った。
 岡豊城に入った国親は、旧領の回復に勤め、吉田城の城主・吉田周孝を味方にし、本山氏とも姻戚関係を結ぶなど地位の安定に努め、天文年間に愈々土佐制覇に乗り出した。まず1547年(天文16)大津城の天竺花氏を攻め滅ぼし、2年後には父兼序の仇敵・山田元道を楠目城に攻め滅ぼすなど、土佐各地を転戦し勢力を拡大した。そして、土佐統一の最後の敵・本山茂辰(シゲトキ)を1560年5月(永禄3)長浜城に攻め落とした。ところがその戦の途中、6月国親が急死した。
F99_2 若くして家督を継いだ元親は「一領具足」(2、3町の土地と被官・下人を持つ名主層)の組織化を進めた。そして、一条兼定・本山茂辰。安芸国虎らと土佐の覇を競ったが、1562年9月(永禄5)、朝倉城に本山茂辰を攻め、容易に決せず、周辺諸城が元親の支配下に入るに及んで、茂辰を追い詰めたが、茂辰は病死した。後を継いだ親茂が降服して、長宗我部氏の土佐統一は大きく前進したが、元親が完全に土佐を統一したのは7年後の1575年(天正3)の事だった。こうして元親の四国制覇への道が開けたわけである。(は「図解戦国史」(成美堂出版)より一部加工)
 その後、元親が阿波に進出し三好家を攻めた際、三好家が信長傘下に入ったため、信長と敵対するが本能寺の変で中断し、窮地を脱した。そして1582年(天正10)三好一族の十河存保を破るとその勢いで阿波・讃岐・伊予と支配域を拡大し1585年(天正13)遂に四国統一を達成した

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2014年2月10日 (月)

冴返る早春の風景5 早春の草花2

 立春となった途端、関東に大雪をもたらした寒さがまだ続いている中、冬季オリンピックが始まり、昨日は都知事選があった。漸く今日辺りから都内の交通網はまともに動き始めたようだが、受験生を抱える家庭では大変な思いをされたと思う。
 今日辺りから、寒が緩むかと思ったが週間予報ではまだまだこの寒さが続きそうだ。そこで、早春と同じ季語「春浅し」の季語で、大宰府を詠った句を添えて、寒中に草叢で咲く小さな花「ハコベ」を紹介
 春浅き水音めぐる都府楼跡(能村登四郎)
Photo ハコベコハコベ)(繁縷)。ハコベラが転じてハコベとなった云う、古くはハコベラと言い、春の七草ではハコベラと言う。但しこれはミドリハコベラの事で、写真のはコハコベともいい、これらの総称をハコベと言う(通説)。小鳥が好む花として世界的にもよく知られている。因みに「カナリヤの餌に束ねたるはこべかな(子規)」がある。
Photo_2 ハコベの。花径が5~7mm位の小さな花、花弁が5枚で夫々2つに深裂、中の子房に白い3個の花柱が立ち、回りには雄しべが7~10個あるのだが、この写真では判りづらい。ハコベは昔から薬草として用いられ、塩と混ぜて歯磨きに用い、又歯槽膿漏の予防薬ともされた。日常生活になじんできた草なのである。

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2014年2月 8日 (土)

争乱の戦国史98(室町Ⅳ38): 城下町の形成

 鎌倉時代から室町時代前半の頃、持統・御家人、或は国人など武士の館はせいぜい150mから200m四方の規模に過ぎなかった。が、それなりに城の体を成していた。即ち、館の中に建てられた倉には何十何百石の年貢米が積まれ、これを売り払って鎧・兜・刀などの武器、時には中国から輸入の絹織物・書画・骨董品、或は塩・魚などの必需品を購入する。そのための市も必然的に発生した。此処に後世の戦国期の城と城下町の原型があった。

 室町後半の戦国期には、下剋上や弱肉強食が日常茶飯事になると、城と町のコンビは第二段階の城下町形成の時期に入る。城は小さなものでは、あり得なかった。戦のために城は険峻な山の上に移り、その構えも本丸・二の丸三の丸、更には空堀や水濠を巡らした。これが戦国の山城である。
F98 小さな領主では町場を伴う城館を本拠とした者も居たが、多くの戦国大名は山城を築き、別に麓の集落に館を持つことが多かった。こうした山城の築城はそれまでの農村に広く散在していた家臣たちの領主館周辺への集中を伴った。家臣団の城下集中が進むと、彼らの膨大な軍需・民需物資の需要供給を巡って、方々から商人や職人が山城の下に集まって来るのはごく自然の成り行きだった。こうして形成された代表的な城下町は小田原(北条氏)、甲府(武田氏)、駿府(今川氏)、小谷(浅井氏)、一乗谷(朝倉氏)等である。(朝倉一乗谷復元図(週刊朝日百科21「日本の歴史」6巻より)

 戦国期が城下町の始まりの時代であると共に、近世の地方都市興隆の始まりでもあった。特に応仁の乱により荒廃した京都を捨てて、一部の公家が地方へ移り、京都の文化を地方に伝え「小京都」と呼ばれた都市も出現した。山口が代表格だが、萩や津和野などもそう呼ぶ人も居る。
 又、城下町以外に商業都市・堺(鉄砲生産第一位∴工業都市でもあった)や一向宗・石山本願寺で造成された宗教都市・石山(後大阪城)、博多、兵庫など商業都市化の進んだ町もできた。又、戦国期後半には多くが、政治都市たる平城の城下町に変化して行く

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2014年2月 7日 (金)

冴返る早春の風景4: 早春の草花1

 ここ2、3日厳寒が続き、掲題の「冴返る」と言う風情である。この時期を、冴返るの他、しみ返る、寒返る、寒戻り等とも言われる。そろそろ暖かくなり始めた頃、寒さが戻ってくることを云い、丁度今頃の時候を云っている。
 この季節、折角膨らみはじめた木々の花芽は、縮こまってしまう。しかし、その早春の中で、花を咲かせるのが、雑草たちで、ほんとに小さな花を咲かせる。そんな花を順次紹介して行こう。今回はまず初春一番に咲くオオイヌノフグリを、「冴返る」を入れた句と共に紹介。
 真蒼な木賊(トグサ)の色や冴え返る(夏目漱石)。註:トグサは茎だけの様な園芸植物
 
Photo オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)。、雑草の中で一番目立つのがこの花。比較的日当たりの良い場所に、群れて咲いている。別名瑠璃唐草、天人唐草、星の瞳など。欧州原産で、日本で最初に発見されたのは1887年の東京故、比較的新しい。従前種犬のフグり絶滅種で、今は大犬陰嚢だけになった。
Photo_2 その。白い花もあるが、このコバルトブルーが特徴。花弁4枚が左右対称についているが根元は繋がっている。径1cm以下の花。雄しべが2本、その間に雌しべ1本(写真でお判り頂けるか?)日が沈むと、花弁が閉じるが、その中で雄しべ2本が雌しべを挟むという。日の当たる時しか開花しない、曇り、夜は閉じている。

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2014年2月 6日 (木)

争乱の戦国史97(室町Ⅳ37): 毛利元就、中国地方制覇

 播磨方面まで侵攻を続けていた尼子氏は、1552年4月(天文21)には、将軍・義輝より因幡・伯耆・備前・美作・備後・備中の守護職に補任され、実質守護だった出雲・隠岐守護が公認されると中国地方八ヶ国の守護職を持つ最大勢力となった。1554年11月(天文23)、尼子晴久は叔父国久が中心の月山富田城新宮谷の新宮党を討伐した。
 一方、厳島の戦い(1555年)を制した毛利元就は、1557年(弘治3)大内氏を滅ぼし周防を手中にし、安芸・備後・周防・長門・石見を支配する大大名に成長していた。残る強敵は山陰・出雲の尼子氏だった

 尼子氏は毛利氏が周防・長門侵攻に専念した弘治年間、その間隙を突いて、大内氏支配の石見東部に侵出していたが、1556年9月(弘治2)、毛利方に銀山山吹城を奪取される。そこから石見銀山を巡る毛利と尼子両氏の戦闘が始まり、1558年(永禄元)には逆に尼子氏が奪還する。
 この対立が続く中、1560年(永禄3)尼子晴久が急死した。その翌年、子の義久が将軍・義輝の仲介で、毛利氏と和議を結ぶ(雲芸和睦という)。しかし、元就は石見方面では戦闘を続け、1562年(永禄5)には石見銀山を奪還、石見を制圧した。
F97 その後、出雲に一挙に侵攻した元就は、出雲の国衆の多くを毛利方に転じさせ、1563年尼子氏の本拠地・月山富田城包囲網を形成し、長期戦に入る。(急峻な山城故大勢力での攻め込みが不能)。長期に亘り耐えた尼子方も遂に、1566年(永禄9)、山中鹿之助ら尼子氏旧臣が尼子一族の子息・勝久を擁して出雲に攻め入り、二年ほど毛利氏を悩ませた。が、その支配領域は上図の如く(着色部全域)広大となっていた。毛利元就1571年(元亀2)その生涯を終えた。この時毛利家は孫の輝元が家督を継いでいた。元就の死後、小早川隆景・吉川元春の「毛利両川」の協力で所領運営にあたったが、元就存命中の求心力は望むべくもなかった。

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2014年2月 5日 (水)

冴返る早春の風景3 花芽膨らむ

 一昨日、全国的に4月頃の気温となり、急激な陽春に「春だ!」と喜んだ途端、昨日は急転本年最低気温と、真冬へ逆戻り。これでようやくタイトルの冴返る早春となった。この時期、本来、草木の花芽が膨らむ時期である。早春の句と共に、膨らんでいる蕾を紹介。
 早春の鎌倉山の椿かな(高浜虚子)
Photo シダレウメ(枝垂れ梅)。普通の梅より1~2週間遅れて咲くのが枝垂れ梅。好天で気温があればばすぐにでも開花しそうな蕾をつけている。が、今週は平年並みの低温が続きそうで、今しばらく、この蕾状態で経過するだろう。
Photo_2 アカシア(orミモザ)。ネムノキ亜科、or アカシア属。オジギソウを意味するミモザと呼ばれることが多いが、これは銀葉アカシア。別名花アカシアである。本来開花期は2月下旬から4月で、今年は早く蕾を付けたが、この寒さで、開花やはり遅れるかも。
Photo_3 ヒイラギナンテン(柊南天)。江戸時代に中国より渡来。棘があるので、公園の立ち入り禁止区域によく植えられる木だが、最近門脇に植えられているケースが多い。

以上3点とも、満開時には夫々の花を掲載する予定であるが、今回はとりあえず蕾で足踏み状態を掲示した。

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2014年2月 4日 (火)

争乱の戦国史96(室町Ⅳ36): 三好氏・三人衆と松永下剋上

 信長が美濃攻略をしている頃、畿内では山城・摂津・丹波・播磨から四国に及ぶ広大な地域を支配する三好氏が勢力を持ち、1549年(天文18)には三好長慶が将軍・義輝と幕府の要である管領・細川晴元を近江に追放。従来の支配体制を崩壊させ、実権を掌握していた。
F96 1558年(永禄元)に将軍・義輝は長慶と和睦して京に戻ったが、長慶から家督を継承した三好義継(長慶の養子)は1564年(永禄7)、長慶が死ぬと三好家の家宰・松永久秀三好三人衆(三好一族の長逸(ナガユキ)、政康と一門衆の岩成友通(トモミチ)) と結託しようとした。が、三好家内で頭角を現した松永久秀は岩成友通らと手を組み、義継を傀儡として三好政権を掌握した。(三好長慶画像(大徳寺聚光院蔵)、背景は屏風・洛中洛外図(上杉博物館蔵)の三好屋敷)。

 松永久秀の出自は不明だが、長慶の元では大和一国を支配するまでになっていた。長慶のの弟・十河一存(カズマサ)と嫡男・三好義興(ヨシオキ)を暗殺し、久秀と対立する長慶の弟・安宅冬康を長慶に讒言し処刑させたとも言われる。
 一方長慶と和睦して京に戻った13代将軍・足利義輝は、1565年(永禄元)将軍権力を復活さえようと活発に動いたが、久秀と三人衆は義輝の勝手を許さず、挙兵して京都二条御所襲撃義輝も奮戦したが、力尽きて殺害された。

 久秀は12代将軍・義晴の甥、足利義栄(ヨシヒデ)を14代将軍に擁立し、傀儡政権を樹立した。この前将軍殺害という暴挙に、出家していた義輝の弟・義昭は、還俗して大和国を脱出。幕府復興の協力者を求めて旅に出た
 一方久秀は三人衆と主導権を巡り対立。両者は戦闘状態に入り、三人衆が立てこもる東大寺大仏殿が松永軍の攻撃で焼失した。彼らの対立と畿内の動乱は、織田信長が義輝の弟・義昭を擁して入京するまで続くことになる

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2014年2月 3日 (月)

冴返る早春の風景2 一気に開いた紅梅

 白梅より若干開花が遅いはずだが、一昨日、昨日と急激に暖かくなり、白梅が一斉に満開状態になったかと思うと、今日は紅梅も満開に近くになっていた。冴返るや早春と言う季語にはマッチしない状況となった。
 白梅は奈良時代に中国より入って来たらしいのに比し、紅梅一足遅く平安時代になってから入って来たと云われる。でも、やはり実がなる白梅が圧倒的に多く、鑑賞には紅梅が良いが、精々庭木ぐらいしかない。尤も最近は紅梅園が彼方此方造られている。
 紅梅を詠ったに 紅梅やひらきおほせて薄からず(睡闇)」 がある。が、これ満開になっても紅梅の色は薄くなってない。との意味かと思ったら、解説には開き切っても尚花びらは分厚いままだと書いてあった。「薄からず」は色か花びらか、どちらだろう?
Photo 一気咲いた紅梅吉川英治は生前、こよなく紅梅を愛したという。青梅吉野郷は戦中、戦後にかけて、吉川英治が住み、新平家物語を執筆した処だそうで、梅の名所なんだそうである。この梅は八重なので、ちょっと見るとまるで八重桜の感がする

Photo_2 紅梅の。梅の樹全体を眺めることは多いが、桜や桃の様に、一輪一輪をよく見たことが無かった。この様に接写してみて、なんとこの花は蕊が多いんだろうと吃驚した。今更なんだと言われそうだが、桜や桃の花はこんなに沢山の蕊はない。いや、多いのでなく蕊が長いのか?

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2014年2月 1日 (土)

冴返る早春の風景1 寒に咲く

 「冴返る」も「早春」も俳句の季語で、「早春」は暦の上で春になったが、まだまだ寒い2月頃を言い、「冴返る」は暖かくなり始めたと思うと又寒さが戻ってくる三寒四温の「寒」の時を言い、丁度今頃から2月の1ヶ月位を指す。この時期に目に就いたものを紹介して参ります。
 因みに、この時期に用いられる季語としては、寒明(立春直後)、春浅し余寒(残る寒さ)、春寒(余寒と同じ)、春めく(寒さが緩むとき)などがある。
 今日は、2,3日前からの暖かい日が続いているので、『春めく』の入った一句と共に、冬に咲いているオキザリスバーシーカラーを紹介
            春めきてものの果てなる空の色飯田蛇笏
Jpg オキザリスバーシーカラー(O.versicollor)。学名ベルシコルを英語読みしてバーシーカラーと呼ばれている。南アフリカ・ケープ地方高原原産の多年草。道端の花壇跡らしきところに野生化して咲いていたもの。南関東以南では、屋外で越冬できる、日当たりを好むが、強い花で、放置すれば増える由。
Photo
 同上。花径1-2cm位の一茎一花。草丈10-20cm。陽射しを受けると開き、朝夕は閉じている。花弁の外側に紅紫色の螺旋状の筋が入っており、閉じた場合も鑑賞できる。花弁の並びがスクリューのようなのも珍しい。花期12月より約3ヶ月と長く咲く。5~9月は休眠期となる。

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