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2014年2月11日 (火)

争乱の戦国史99(室町Ⅳ39): 長宗我部氏四国制覇へ

 応仁の乱後、紫国の阿波・讃岐・土佐の守護であった元管領・細川氏も三好長慶・松永久秀に力を奪われ、阿波守護であった細川持隆1552年(天文21)長慶の弟・義賢に圧倒され自殺し、細川家は滅んだ。代って土佐を中心に長宗我部氏勢力を伸ばした
 長宗我部氏は初め、細川氏のもとで力を蓄えていたが、1508年(永生5)には国人の反乱で当主・兼序(カネツグ)が殺された。この時、子・千雄丸は未だ幼少であったが、一条房家のもとに落ちのび、10年後元服し国親と名乗り、房家の計らいで岡豊(オコウ)城に帰った。
 岡豊城に入った国親は、旧領の回復に勤め、吉田城の城主・吉田周孝を味方にし、本山氏とも姻戚関係を結ぶなど地位の安定に努め、天文年間に愈々土佐制覇に乗り出した。まず1547年(天文16)大津城の天竺花氏を攻め滅ぼし、2年後には父兼序の仇敵・山田元道を楠目城に攻め滅ぼすなど、土佐各地を転戦し勢力を拡大した。そして、土佐統一の最後の敵・本山茂辰(シゲトキ)を1560年5月(永禄3)長浜城に攻め落とした。ところがその戦の途中、6月国親が急死した。
F99_2 若くして家督を継いだ元親は「一領具足」(2、3町の土地と被官・下人を持つ名主層)の組織化を進めた。そして、一条兼定・本山茂辰。安芸国虎らと土佐の覇を競ったが、1562年9月(永禄5)、朝倉城に本山茂辰を攻め、容易に決せず、周辺諸城が元親の支配下に入るに及んで、茂辰を追い詰めたが、茂辰は病死した。後を継いだ親茂が降服して、長宗我部氏の土佐統一は大きく前進したが、元親が完全に土佐を統一したのは7年後の1575年(天正3)の事だった。こうして元親の四国制覇への道が開けたわけである。(は「図解戦国史」(成美堂出版)より一部加工)
 その後、元親が阿波に進出し三好家を攻めた際、三好家が信長傘下に入ったため、信長と敵対するが本能寺の変で中断し、窮地を脱した。そして1582年(天正10)三好一族の十河存保を破るとその勢いで阿波・讃岐・伊予と支配域を拡大し1585年(天正13)遂に四国統一を達成した

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