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2014年2月 6日 (木)

争乱の戦国史97(室町Ⅳ37): 毛利元就、中国地方制覇

 播磨方面まで侵攻を続けていた尼子氏は、1552年4月(天文21)には、将軍・義輝より因幡・伯耆・備前・美作・備後・備中の守護職に補任され、実質守護だった出雲・隠岐守護が公認されると中国地方八ヶ国の守護職を持つ最大勢力となった。1554年11月(天文23)、尼子晴久は叔父国久が中心の月山富田城新宮谷の新宮党を討伐した。
 一方、厳島の戦い(1555年)を制した毛利元就は、1557年(弘治3)大内氏を滅ぼし周防を手中にし、安芸・備後・周防・長門・石見を支配する大大名に成長していた。残る強敵は山陰・出雲の尼子氏だった

 尼子氏は毛利氏が周防・長門侵攻に専念した弘治年間、その間隙を突いて、大内氏支配の石見東部に侵出していたが、1556年9月(弘治2)、毛利方に銀山山吹城を奪取される。そこから石見銀山を巡る毛利と尼子両氏の戦闘が始まり、1558年(永禄元)には逆に尼子氏が奪還する。
 この対立が続く中、1560年(永禄3)尼子晴久が急死した。その翌年、子の義久が将軍・義輝の仲介で、毛利氏と和議を結ぶ(雲芸和睦という)。しかし、元就は石見方面では戦闘を続け、1562年(永禄5)には石見銀山を奪還、石見を制圧した。
F97 その後、出雲に一挙に侵攻した元就は、出雲の国衆の多くを毛利方に転じさせ、1563年尼子氏の本拠地・月山富田城包囲網を形成し、長期戦に入る。(急峻な山城故大勢力での攻め込みが不能)。長期に亘り耐えた尼子方も遂に、1566年(永禄9)、山中鹿之助ら尼子氏旧臣が尼子一族の子息・勝久を擁して出雲に攻め入り、二年ほど毛利氏を悩ませた。が、その支配領域は上図の如く(着色部全域)広大となっていた。毛利元就1571年(元亀2)その生涯を終えた。この時毛利家は孫の輝元が家督を継いでいた。元就の死後、小早川隆景・吉川元春の「毛利両川」の協力で所領運営にあたったが、元就存命中の求心力は望むべくもなかった。

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