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2014年2月20日 (木)

争乱の戦国史103(織豊Ⅰ03): 織田信長 上洛

 1568年7月(永禄11年)、織田信長は越前の朝倉義景の元にいた足利義昭を美濃に迎え、9月7日遂に上洛の途に就いた。信長35歳であった。義昭を将軍に就け、室町幕府を再興するという名分であった。尾張・美濃・伊勢の軍勢4万とも6万とも伝えられる大軍を率いて、近江の琵琶湖畔東岸を南下すると、敵対していた観音寺城を居城とする六角承禎(義賢)・義治父子を戦わずして敗走させ、わずか1週間で近江を平定後、9月26日には京都に入った
F103  引き続き、三好三人衆(三好長慶の家臣だった三好長逸、三好政康、石成友通)の城を攻めるため軍を進め桂川を越え山城勝竜寺城を落とした。更に摂津に入り芥川城・越水城を攻略し、わずか10日余りで三好三人衆を掃討・敗走させた。又、池田城の池田勝正は人質を出し降伏。尚、丹波を支配していた松永久秀は自ら信長の元を訪れ、恭順の意を表して、大和の支配を安堵された。そして京の西の出口を押さえておいて、義昭と共に10月14日には京に戻った。こうして信長は岐阜を進発して以来、わずか1ヶ月で畿内を平定したのである。(は柴田勝家筆と伝わる信長像(摠見寺蔵))

 1568年10月18日(永禄11)、義昭は念願かなって15代将軍に就任し、併せて従4位下、参議・左近衛権中将にも叙任された。此れに感激した義昭の信長への信頼は絶大であり、感謝のしるしとして、信長副将軍か管領にしようとしたが、信長はこれを辞退した。それではと、近江、山城・摂津・和泉・河内の5ヵ国を望み次第に知行せよとの話も断った。
 代りに、信長が義昭に願い出たのは、商業都市の堺と近江大津・草津に代官を置き、直轄地とする事だった。そして翌年、信長はこれらを支配下に置いたのである。
 義昭の将軍就任をみて、戦後処理を一段落させると、信長は10月26日はあっさりと岐阜に引き上げた。しかし、翌1569年1月5日(永禄12)、態勢を立て直した三好三人衆義昭を襲撃する事件が起き、信長は直ちに援軍を差し向け、最上洛して三好勢を鎮圧する。だが、三好勢の資金源が堺だったことを知り、信長は二万貫を献上させ、奉行を置き軍資金や鉄砲、各種情報の入手先とした
 その一方で、信長は義昭の新御所の造営に着手し、陣頭指揮を執って贅を尽くした城郭が落成し、義昭が居を移すまで、2ケ月の突貫工事で完成させたのである。

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コメント

大河ドラマ”軍師官兵衛”も今はこの頃の様ですね!

投稿: 自遊人 | 2014年2月24日 (月) 07時21分

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