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2014年2月18日 (火)

争乱の戦国史102(織豊Ⅰ02): 細川幽斎の人物列伝

 細川幽斎は戦国時代に4人の主君に仕え、いつも脇役ながら節目節目の転換期には必ず大きな活躍をした人物故、ここで彼の人物列伝を1項としておく
 細川幽斎(藤孝)1534年(天文3)、足利家の家臣・三淵晴員(ハルカズ)の次男に生まれ、6歳の時細川元常の養子になった。剣法塚原卜伝に学び武道の達人だった上に、若くして歌道や連歌の道に入り「古今伝授」を受けた。(古今伝授とは古今和歌集の解釈に関する秘説を伝承する唯一の特別資格者)。更に茶道、料理、音曲、刀剣鑑定、有職(ウショク)故実などの奥義を極めた、当代随一の文化人であった。
F102 勿論武人としても優れていて、1573年(天正元)40歳になった幽斎は長年仕えた15代将軍・足利義昭の元を去り、息子・忠興と共に織田信長(40歳)の家臣となった。1565年(永禄8)に、幽斎は松永久秀に興福寺に幽閉された義昭を救出し、更に同僚の明智光秀と共に義昭の上洛を計画。信長の支援を受け、1568年(永禄11)遂に義昭を将軍に就任させた。しかし、義昭は自分が信長の道具に過ぎないことを悟り、反信長姿勢を強め、幽斎の諫言にも拘らず、同年信長打倒の兵を挙げるに至り、止む無く決別を決意した。(細川幽斎画像(天授庵蔵))。
 幽斎がしたたかであったのは、1582年(天正10)信長を倒した光秀が幽斎に援護要請をした時だった。光秀の娘・お玉は幽斎の息子・忠興の妻だったが、幽斎親子光秀の援軍要請を拒否、忠興は一時お玉(ガラシャ)を離縁までした。そして、光秀を討った豊臣秀吉には幽斎は背かないことを誓い、豊臣政権では重要な役割を担う。

 秀吉死後は、徳川家康に接近1600年7月(慶長5)関ヶ原の前哨戦では、丹後の田辺城で西軍の大軍を迎え撃つ。田辺城に籠城した細川勢は、わずか500人で1万5000人の大軍の攻撃に耐えた。この時の幽斎も死を覚悟し、古今伝授の証書は教え子の智仁親王に贈った。親王は後陽成天皇に幽斎救助を願い出て、天皇勅命により、幽斎は田辺城を開城した。しかしこのため、包囲した西軍にとっては時遅く2日後の関ヶ原には間に合わなかった。この西軍を60日間足止めした功績を家康は大いに称賛し、望みの土地を与えようとしたが、幽斎はこれを固辞し、文人としての余生を楽しんだという。しかし、この時、幽斎は「古今伝授」を楯に身を守ったと評する歴史家もいる。古今伝授がある限りこれを攻めるのは出来ないとの計算もあったという。幽斎の孫・忠利は熊本城主となり明治まで続いた。(元首相・細川護煕は18代当主)

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