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2014年2月15日 (土)

争乱の戦国史101(織豊Ⅰ01): 信長、天下布武を旗印に

 今回より、足利義昭を奉じた信長が天下を目指す時代になるので、一般的日本史の時代区分とは異なりますが、「織豊(時代)」(安土桃山時代)とします。その内、信長が室町幕府に代わる統一政権を目指す時期織豊Ⅰとします。

 1565年(永禄8)、14代将軍・足利義輝が松永久秀、三好三人衆に殺害され、実質的に幕府が滅亡すると、出家していた弟・覚慶は興福寺に幽閉されたが、幕臣・細川幽斎(藤孝)らの助けにより脱出に成功し、還俗して「足利義秋」と名乗り、幕府再興を目指す。
 しかし、義秋が身をよせた南近江の六角氏は三好方に内通し、ついで頼った女婿の若狭武田氏も内乱続きだった。その後、越前の名門・朝倉義景の元へと移り、元服して名を義昭と改めたが、義景の腰は重く、兵を挙げようとはしなかった

 この頃、明智光秀は朝倉義景に仕えていたと云われ、義昭が新たな庇護者を求めて近江の浅井長政の元を経て美濃入りし、信長を頼ろうとした際、明智光秀が義昭の側近である「昵懇衆」の地位を得ていて、信長への紹介をし、且つ自分を信長の家臣とするよう義昭に推挙させたと言われる。
F101 一方、1567年(永禄10)に美濃の斎藤龍興を追放し、稲葉山城を岐阜城と改めて居城とした織田信長は、楽市楽座など経済政策を施す一方で、朱印状に「天下布武」印文を使い始めた。これは「武力によって日本を治める」意味で、信長の天下統一に向けた決意表明でもあった。当然上洛を念頭に入れていた信長にとって、義昭というカードを手に入れることは、上洛の大義名分を得ることであったので、朝倉から義昭を引き取り、共に上洛の決意を固める。(図は安土城5階・八角の間の内陣(復元)。信長の館提供)
 信長は早速甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信ら各地大名に対し、義昭を奉じて上洛することを通知。彼らの動きを牽制しつつ上洛戦の準備を始めた。既に1567年8月(永禄10)、かねてより伊勢、近江の経営に腐心していた信長は桑名に出て、楠、高岡両城を攻め落とし、翌年再び北伊勢に侵入、神戸友盛と和議、三男信孝を養子に入れた。又長野氏は弟・信包が襲封、残りは滝川一益に束ねさせ、伊勢を固めた
 又上洛途上にある江北の浅井長政と同盟を結び、妹・お市を嫁がせた。更には、奈良の興福寺の衆徒・国人や三好三人衆と対立した松永久秀、江南の国人らにも味方に付くよう働きかけている。

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