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2014年2月13日 (木)

争乱の戦国史100(室町Ⅳ: 大友・島津 九州覇権の戦い

 九州に割拠した群雄の中で先ず頭角を現したのは、陶晴賢に殺害され没落した大内氏に代って、大友宗麟であった。中国地方の覇者にのし上がった毛利元就1559年(永禄2)、豊前に侵略の手を伸ばし、1561年(永禄4)~1564年(永禄7)の間にも、大友・毛利間では激しい闘いがあり、或は将軍仲介の和睦(豊芸和睦)など繰り返した。
F100 1569年(永禄12)には北部九州にて毛利家の吉川・小早川隆景らが侵攻したが、大友軍の立花道雪の活躍に圧倒された毛利軍は領地獲得も出来ず、又、この時尼子氏の残党にも足元を揺るがされたため、毛利軍は撤退して、大友軍の勝利に終わった。また、北九州の菊池氏や少弐氏下剋上で滅亡した結果、代って大友宗麟(義鎮(ヨシシゲ))が勢力を拡大した。そして宗麟は九州北部の豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の6ヶ国の守護に任じられ、大友氏の全盛期を築き上げたのである。(図は「図解戦国史(成美堂出版)」)より

 これに対し、南九州では島津氏が台頭した。今津氏は薩摩・大隅・日向の守護職をつとめる家柄で、家督相続を巡って一族間に抗争が生じていたが、1550年(天文19)に島津貴久鹿児島に入城して決着。以後、子の義久と共に薩摩・大隅の統一事業を進めた
 1566年(永禄9)に家督を相続した島津義久1578年(天正6)に日向で大友宗麟と激突した。宗麟は島津のの拠点・高城を攻撃したが、島津の反撃をうけて敗走。耳川(現宮崎)に追い詰められ、壊滅的な打撃を受けた。これを「耳川の戦い」というが、この合戦をきっかけに大友氏の衰退がはじまり、宗麟に抑え込まれていた肥前(現佐賀)の竜造寺隆信が離反。当主の隆信とその義弟・鍋島直茂は2度にわたり大友軍を退け、肥前を平定して領国を拡大し、その名を挙げた。
 かくして、九州はこれら3大勢力と情勢の変化で立ち位置を変える有馬・相良・阿蘇氏などの小勢力の時代へと突入して行く。

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