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2014年1月

2014年1月31日 (金)

争乱の戦国史95(室町Ⅳ35): 家康、三河統一と遠江奪取

 西三河の国人・松平宗家7代・清康は勢力を伸ばし、三河を統一する。ついで1535(天文4)、織田家の拠点の近くの守山まで迫ったが、松平家家臣に間違って暗殺される(守山崩れという)。結果、松平家は分裂、衰退していった。
 1540年(天文9)、織田信秀は三河の混乱に乗じ安祥城を占領。今川義元は大軍を率い三河に入り、1542年8月(天文11)小豆坂合戦、今川軍が敗れた
 松平8代・広忠(家康の父)は、織田氏の三河制圧阻止のため、今川氏と組み一子・竹千代(家康)を人質としたため、1547年8月(天文11)、岡崎を発した竹千代は、途中織田方武将に奪われ、織田方の人質となる。翌年3月今川義元は再び三河・小豆坂に戦いに勝って、更に安祥城を攻め信秀の一子信広を捕えた。そこで、竹千代と信広の人質交換で和議が成立。竹千代(元康と名乗る)が駿府にあり、一族家臣は今川氏配下に組み込まれた。
F95_2 ところが桶狭間の戦いで、義元が討ち死にし、状況が一変した。居城の岡崎城に戻った元康(家康)は信長と同盟を結び、家康と改名。今川家の支配から離脱した。続いて三河の統一をめざし西三河、東三河に兵を進めた。その途上、本願寺門徒の一向一揆が発生した際、本多正信他多くの家臣が一揆に加担し、非常な苦戦を強いられたがこれを平定し、1564年(永禄7)ほぼ三河を統一した。翌々年(1566年)、姓を徳川に改め、従五位下に叙せられ三河守に任じられ、名実ともに三河の太守となった。かくして戦国大名の確固たる地位を築いた。(徳川家康像(豊田市・隣松寺蔵))

 家康の次なる狙いはかっての主家・今川家の領地であった。義元の跡を継いだ氏真は公家趣味で家臣の統制ができず、衰退していた。そこで、1568年(永禄11)、家康は甲斐の武田信玄と組み1569年(永禄12)、一気になだれ込んだ両軍が今川領を蹂躪し、掛川城に氏真を攻め、今川家を滅ぼした。今川家旧領の内、駿河は武田家遠江は徳川家のものになった。2ヶ国の大名となった家康は、1570年(元亀元)浜名湖のほとりを「浜松」と改名しここに城を築き、新たな本拠地とした。

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2014年1月30日 (木)

冬の風景10 冬終わる

 今の春が目の前という時期を表す季語で、冬の名残り、冬尽く、冬去る、冬の果てなどとも表現される。尤も、日本列島は北から南まで気象条件はまちまちだから、春近しとはいっても何処でも一様の春ではないが「春が近い!」の感じはそれなりに感じる時であろう。
 唯この頃、3寒4温などと言って気温の変化も激しく、風邪を引きやすい時期である。しかし、そこは良くしたもので、今金柑の実が熟れている。この金柑は風邪に非常によく効くからか、この辺り他の柑橘類と同様必ず1本は庭に植えている。鑑賞用もあろうが多分昔からの風邪対策と思う。それで、今日は「冬終わる」俳句と合わせ熟れたキンカン。
 湯屋の前月濃くて冬去りにけり(大野林火)
 冬の果蒲団にしづむ夜の疲れ(飯田蛇笏)
 ひそかなる亀の死をもち冬終わる(有馬朗人)
 二夜三夜兄妹会わず冬了わる(石田波郷)
Photo キンカン(金柑)。咳やのどの痛みに効果があり、風の妙薬とされる。勿論鑑賞用として庭木や盆栽もある。中国長江中流が原産地。日本には薬として入って来たという。今は食用として主なブランドは宮崎県産JAブランドが有名で糖度16-18度あり、大きさも3cm前後と大きい。
Photo_2 。夏から秋にかけ3~4回白い5弁の花をつけ、夏からずーと咲き続けの感がするが、初夏につけた花は実がならない。だから花期が長いのか?金柑は何と言っても栄養成分が多く含まれ、ビタミンC,E、カロテン、フラボノイドが多く、その相互作用で、風邪、動脈硬化、歯周病、血管の老化防止に効くという。

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2014年1月29日 (水)

争乱の戦国史94(室町Ⅳ34): 信長、美濃攻略

 織田信長は桶狭間の勝利(1560年)から美濃攻略まで7年間を要する。強敵であり、一筋縄では対応できない相手で、信長は武力だけでは無理だと判じ、美濃の国人勢力を調略によって味方につけ徐々に切り崩していった。
 中でも重要だと考えたのは美濃の知将・竹中半兵衛を味方に付けることであった。半兵衛は美濃・斎藤氏に仕える菩提山城主・竹中重元の嫡男として生まれ、斎藤龍興(道三の孫)に仕えていた。1564年(永禄7)、元々半兵衛を軽んじた主君・龍興から或る時侮辱されたことで怒った半兵衛は父・重元と謀り、稲葉山に乗り込み、わずか16名の手勢でこれを占拠、竜興を城外に追いやった
 これを聞いた信長は直ぐに半兵衛に「稲葉山城を明け渡せば美濃半国を与える」と持ちかけたが、半兵衛は「国を取る気はない、あくまで主君を諫める行動だった」と稲葉山から退去し、浅井家の客分として近江国に隠居してしまった。
 それでも諦めきれなかった信長は木下藤吉郎(のち羽柴秀吉)に説得させ、結果、藤吉郎の説得に応じ、羽柴配下の腹心として各地の戦いに活躍したと言われる。

F94 1561年(永禄4)、美濃城主・斎藤義龍(道三の子)が病死し、若い(13歳)龍興跡を継いだとき、信長は美濃攻略の好機到来として調略を仕掛けた。1567年8月1日(永禄10)先ず、斎藤家重臣で西部に大きな勢力を持つ稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守成の「西美濃三人衆」裏切らせることに成功した。これにより斎藤家の衰退は決定的となり、8月15日、信長はその隙を突き、三河遠征を装って集めた兵を挙げ、一挙に総攻撃を開始した。余りの速攻に、斎藤方は家臣団を集結する間もなく、翌日には稲葉山城は落城し、龍興は伊勢に遁れて、道三以来の斎藤氏は滅亡した。(図解戦国史(成美堂出版)より)
 こうして美濃を手に入れた信長は稲葉山城のあった場所に新たに城を築き岐阜城と名付け、本拠地を移して、城下町の形成に力を注いだ(美濃加納に楽市令を発する)。この戦勝で塞がれていた西上のルートが開けたのである。この頃から、信長は「天下布武」の印を使い始めている。天下を自らの手で統一する意思を示し始めた時期である

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2014年1月28日 (火)

冬の風景9 梅早し

 丁度今頃のことか、「梅早し」或いは「冬の梅」「寒梅」などとも云い、寒中に花を開く梅のこと、或はその年の気象条件に拠って早く咲くときとか、又は熱海や小田原の様に地域によって早く咲く梅のことも云う。
 今頃になるとなんとなく柔らかい日射しで、春が待ち遠しく、つい梅の木に目をやりながら歩き、花が咲きは始めると嬉しくなる。昨日歩いて居てこの「咲始め」をみつけた。但し、この辺りでは花をつけた樹はこの1本だけで、他は漸く蕾が膨らんできたところだ。例により、早梅の句と共にこの咲始めの梅を紹介
 よき流れありて暖か梅早し(高浜虚子) 寒梅を手折るひびきや老が肘(与謝無村)
 早梅に人風塵を避けてあり(原石鼎) 冬の梅はげしき夜雨に匂なり(水原秋桜子)
Photo 早咲きの梅。梅の呼び方は色々あるが、代表的なのが「春告草」である。花見と言えば江戸時代以降はだが、奈良時代以前は専ら梅だった。この樹は、昔からの集落の中の家の庭先のもの。風の当らぬ、日当たりにいい場所故か、或はこの木の特質なのかは不明。

Photo_2 梅の花。梅を図案化した梅紋という家紋には、梅の花、梅鉢、星梅鉢、裏梅、梅鶴などがあるが、この梅鉢の名は、中心から放射状に配置した花弁が太鼓の撥(バチ)に似ている事に由来し、菅原道真が梅を好んだことから、天満宮の神紋として用いられたのが始まりと云う。

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2014年1月27日 (月)

争乱の戦国史93(室町Ⅳ33): 藤吉郎、一夜城築城

 1562年正月(永禄5)織田信長は三河の松平家康と清州城で会見、家康嫡男・竹千代と信長娘・五徳の婚儀を結び、堅い盟約(清州同盟)を取り交わして、信長は美濃・近江・伊勢に向かい、家康は遠江・駿河に向かう約束をする。
F93 その結果信長は心おきなく美濃攻略に打ち込めるようになり、1563年7月(永禄6)には清州から小牧山に居城を移し、適地墨俣に城塁を築き美濃攻略に乗り出す。(は居城を移した小牧山城跡)。
 墨俣は長良川、木曽川の合流点であり、交通の要衝で、且つ稲葉山城が見通せる戦略上の要衝でもあった。美濃は道三の死後、後を継いだ義龍は巧みに国内勢力をまとめ、尾張の攻撃をかわしていた。その義龍も桶狭間の翌年1561年病死したが、後を継いだ龍興も父の作り上げた体制を受け継ぎ、頑強に抵抗していた。
 当初信長は、墨俣築城を重臣の佐久間信盛や柴田勝家に命じたが、いずれも失敗していた。そこで信長は木下藤吉郎(のち羽柴秀吉)に築城を命じた。
 藤吉郎は桶狭間の戦い前後から信長の身辺につき従っていた。この頃、藤吉郎は川筋の者たちとも交流を持ち、又木曽川のデルタ地帯の蜂須賀の土豪・蜂須賀小六とも親交があった。藤吉郎は彼等を利用することを考え、1566年(永禄9)に小六とコンビを組み、在地武士や船頭、馬借、樵、大工を集めた混成団(2,000人を超えたとも言う)で、前後7日間で見事砦を築き上げたと云われる。
 その秘密は木曽川上流で切り出した材木は順次加工して木曽川を流し、墨俣では順次組立ててゆくという流れ作業方式で行い、短時間での構築を実現したであろうと考えられる。

 しかし、これは『武功夜話』に出る話で、比較的信憑性のある『信長公記』では、既に墨俣には砦があったとあり、実際には信長の陣頭指揮で築かれたとする見方が増えてきている。ともあれ、この期に藤吉郎は頭角を現し、織田家中に知られるようになった。

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2014年1月25日 (土)

冬の風景8 日向ぼこ

 日向ぼこり、日向ぼっこ等ともいう。冬の晴れた日の陽だまりの、風の来ないところで、陽光を浴びていると本当に気持ち良い。曇り空の多い日本海側の冬は、北風が吹き海は荒れて寒い。しかし、時には晴れて風もなく温暖な日和には、陽だまりでの「日向ぼこ」が何と言えぬ心地よさを味わえる。
 そのような日当りの良い場所に今頃は水仙がいい香りを放ち満開である。その中で最近割合多くなってきたラッパスイセンも花盛りである。その水仙を日当ぼこの句を添えて紹介。
 うとうとと生死の外や日向ぼこ(村上鬼城)
 雪落つる光飛び来ぬ日向ぼこ(鈴木花蓑)
 欠伸して顔の軋みし日向ぼこ(山口誓子)
 日に酔ひて死にたる如し日向ぼこ(高浜虚子)
Photo ラッパスイセン原産地は地中海地方。ポルトガルやスペインのほか、ドイツやイギリス辺りまで分布。日本に平安末期には渡来していたというから、古くからある花である。年の暮れあたりから咲始め、4月頃まで咲く。最近は鉢植えのミニラッパスイセンも売られており、玄関先に置いている家も多い。
 Photo_2
 下接写の。漢名で水仙と書きそのまま読んだもの。中国古典にある「仙人は天にあるを天仙 地にあるを地仙 水にあるを水仙という」から採ったもの。花は一茎一花で、普通の水仙に比し、中の副花冠が長く伸びているのが特徴で、花弁より長いものをラッパスイセンと呼ぶ。

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2014年1月22日 (水)

冬の風景7 春隣り

 春がもうすぐそこに来ている事で、今頃の事を春隣り或いは春近しという。大寒(20日)が過ぎたが、1年で今が一番寒い時で、最高気温も今季最低の6~7℃と低かった。が、気温とは別に、風がなく薄日がさせば、なんとなく春めいた感じする
 このような時には、近くの多々良川下流には、博多湾の干潟に飛来している珍しい渡り鳥が、群れを外れてこの多々良川に来ることもある。それを見ようと思い出かけたが、期待外れで鴨と海猫だけだった。仕方なく、その写真を俳句と共に紹介。
 六甲の端山に遊び春隣(高浜年尾) 叱られて目をつぶる猫春隣(久保田万太郎)
 車窓より瀬戸の島山春隣(星野立子) 白波を立たせる風も春隣(稲畑汀子)
Photo_2 ウミネコ(海猫)。この季節、風が無く薄日がさすような日には、いろんな渡り鳥がこの多々良川河口より上流に鴨と共にくるが、今日は海猫だけだった。見た目可愛い海猫だが、鳴き声は猫のようだし、結構獰猛でカイツブリやスズメを捕食するという。手前の黒っぽいのはカモである。

Photo_3 餌に群がる海猫。この辺り一帯の河岸は公園化されており、親子連れで、写真のように鳥たちに餌を与える人が多い。鳥達もよく心得たもので、一斉に餌に群がる。そのおこぼれを遠巻きにした鴨が食べる風景がよくみられる。この辺り一帯の今頃の風物詩である。
 
 

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2014年1月21日 (火)

争乱の戦国史92(室町Ⅳ32): 川中島の決戦(4次会戦)

 過去3次に及ぶ会戦で、北信濃を手中に出来なかった武田信玄は、1961年(永禄4)に北信濃進攻に備えて、先ず川中島に海津城を築いた。そして同年8月18日甲斐・府を発ち24日海津城に入らず川中島の対岸茶臼山に陣取り、暫く謙信の様子を窺いながら、29日海津城に入った
 一方、上杉謙信8月14日に越後・春日山城を出立し、16日には善光寺平を南下し、信玄の海津城を越えて妻女山に着陣した。これは退路を断っての決戦の決意と見られる。この謙信の動きを見て信玄本陣を雨戸渡しに移し妻女山を海津城とで挟む陣形をとった。ところが謙信20日余り妻女山に布陣したまま動かなかった
F92 9月9日、これに焦ったか信玄は2万の軍勢の内1万2千を割いて妻女山夜襲に振り向け、本隊を川中島の八幡平へと移動した。これは「啄木鳥(キツツキ)戦法」を採り、謙信を背後から追い立て、妻女山を降りて来る敵を信玄の本体が迎撃する作戦だった。しかし、9月10日早朝、謙信はこれを察知し、粛々と山を下り、朝霧が晴れた頃、突然越後勢の先鋒が甲州勢の前面出て襲いかかった。所謂「車掛かりの陣」だ。
 さすがの甲州勢も驚き、浮足立ってしまったが、信玄はすかさず陣形を立て直し、鶴翼の陣を採ったが、次々新手を繰り出す越後勢とは乱戦となり、史上まれにみる凄惨な死闘となった。午前7時である。兵力2分による不利な戦いで武田信繁、山本勘介などが討ち死にした。
 あわや甲州勢敗北かというとき、妻女山夜襲部隊が降りて来て戦況は一変し、武田勢が勢いを盛り返した。午前10時頃、これを見た謙信は武田本隊を正面から突き切って撤退。結果、信玄はかろうじて北信濃を手にする事に成功したのである。但し、謙信、信玄両者の戦いの間、漁夫の利を得たのは信長であった

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2014年1月20日 (月)

冬の風景6 鰤起し

 冬の北陸、特に能登地方の冬の雷は物凄いらしい。まるで天が壊れて落ちてきたようだと形容される程、轟渡る爆音と荒れ狂う海、それを「鰤起し」という。海底に寝ている鰤が驚き、海面近くまで浮いてくることを言っている。その鰤が能登の旬の『寒鰤』であり、大変に美味しい。
 この鰤や他の新鮮な刺身に、今頃とれる柚子で作った「柚子胡椒」を添えると、これが又一段と旨い。刺身に限らず、お吸い物や冷奴など日本料理に柚子胡椒を添えて日本酒を呑む。酒好きには堪らぬ季節。そんな事で鰤起しから柚子が浮かんで撮って来た。鰤起しの句を添えて紹介。
 鰤起こし杉山檜山色褪せぬ(阿波野青畝) 竃火に轟渡る鰤起し(橋本花風)
 一湾の気色立をり鰤起し(宮下翆舟) 立山の襞引締めて鰤起し(蔵巨水)
Photo 上ユズ(柚子)。揚子江上流が原産地。飛鳥・奈良時代には日本で栽培されていたようで、今は東北以南では各地で栽培。食用以外に香水や精油も作られ、残滓は堆肥となる。風呂に入れて柚子湯にすると風邪を引かないという。唯一の欠点は木に棘があるが、最近は少ない品種もあるとか。
Photo_2 下接写の。果肉と共に皮も香辛料、薬味として使用され、唐辛子と柚子の果皮に塩を入れ、練潰して熟成したものが「柚子胡椒といい、大分県特産となっている。鍋物、汁物、豆腐、刺身、天ぷら、焼き鳥等に合い、最近は柚子胡椒が多く販売されスパゲティ、サラダのドレッシング、トンカツ、ラーメンの調味料の用途も広がって来た由。

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2014年1月18日 (土)

争乱の戦国史91(室町Ⅳ31): 川中島の戦い 序盤戦1-3回

 上杉謙信と武田信玄の川中島での戦いは、『史学雑誌』(39の12)における渡辺世祐氏の論文により提唱された「5戦説」が定説となっている。今回はその序盤戦としての1-3回目までを記述する。
 信濃・更科郡を流れる千曲川と犀川の合流点に川中島が位置する。甲斐・越後上野3国に通ずる要所で、信濃の完全支配を目指す信玄にとっては何としてでも確保して置きたい要衝の地である。

 折しも信玄の信濃侵攻によって本城を奪われた小笠原長時や村上義清らが越後に敗走し、自立したばかりの謙信に救援を求めた。義に生きた謙信は北信濃は越後にとっても重要、北信の国人衆が謙信を頼んだこと、特に親戚の高梨氏救援を名目に、1553年8月(天文22)、川中島の合戦が始まった
 1回目は、上杉軍は5000の兵で出陣し、信玄に奪われた葛尾城を攻略。武田軍もすぐに反撃。上杉軍は川中島に兵を集め、信玄の遊撃戦部隊とゲリラ戦を展開したが、主力衝突は起こらないまま、両軍とも引き上げた
F91 2回目は、1555年4月(弘治元)に勃発。前年12月、甲・駿・相の3国同盟締結で、信玄は北信攻略に全力を注ぎ始めた。そこへ謙信が信濃に入り、善光寺の城山を根拠とした。当時善光寺別当栗田氏は里栗田家と山栗田家があり、前者は上杉氏に属し、対して後者は武田氏に属し旭山城に拠った。信玄は旭山城に3千人の兵と8百張の弓と3百挺の鉄砲を投入し、自ら犀川南岸の大塚に陣して謙信と対峙した。7月19日、両軍犀川を挟んで激戦。(川中島合戦屏風絵、(岩国歴史美術館蔵))
 短期決戦を焦る謙信に対し、信玄は持久戦法を採った。退陣100日に及び、謙信軍勢は動揺し始め、諸将に「奮闘する」旨の誓約書を提出せしめた。そしてついに今川義元の調停により、対決は和睦を結び、両軍撤兵して終わった。

 3回目は、1557年武田軍が葛城山城を攻略し、上杉軍も武田方の山田城や福島城を攻略しながら川中島方面へ南下したが、大きな戦闘にならずに終わった

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2014年1月17日 (金)

冬の風景5 山眠る

 「山眠る」風も雪もない今頃の穏やかな日和の山を指す場合が多く、なんとなく春めいてきた時分の静かな山のことである。この言葉の由来は、北宋の山水画家・郭煕の画論にある「春山淡治にして笑うが如く、夏山蒼翆にして滴るが如し、秋山明浄にして粧うが如く、冬山惨淡として眠るが如く」から、冬山を「山眠る」といい、同様に春・山笑う、秋・山粧うが夫々の季語となった。但し夏山は季語になってない。
 このように、なんとな春近い冬の日和の中で、見ごろとなっているのが、写真の赤い「マサキ」の実から弾けて飛び出した橙色の種が鮮やかに見える。山眠るの句を添えて、マサキの実を紹介。
 日当たりの海ほかほかと山眠る(尾崎紅葉)
 浅間山空の左手に眠りけり(石田波郷)
 重なりて眠れる山は鞍馬かな(高浜虚子)
 天龍へ崩れ落ちつつ眠る山(松本たかし)
Photo マサキ(柾)。海岸近くで自生するが、寒さや大気汚染にも強く、庭木や生垣としてよく使われている。初夏に小さい白い花を沢山付ける。秋にその実が付くが、冬になるとそれがはじける。

Photo_2 弾けた実。写真ごとく赤い実が熟して今頃になるとそれが弾けて、中から橙色の仮種皮に包まれた種が4個出てくる。花が少ないこの時期には結構目立って、鑑賞の対象になり得る。

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2014年1月16日 (木)

争乱の戦国史90(室町Ⅳ30): 桶狭間の戦い

 今川軍の織田領内への侵攻、苦戦の砦、出城からの報にも織田信長は動かず、平常通り床に就いたが、翌1560年5月19日早朝、清州城の信長の元へ鷲津・丸根の砦に今川勢の先鋒が攻めかかったとの知らせが入った。これを聞いて信長は幸若舞「敦盛」を舞い、側近の従者数名を従え清州城を出て、熱田神宮に参拝、必勝祈願ををした。この間駆けつけた軍勢も徐々に増加、約3千弱の軍勢を従えて出陣となった。途中、丸根・鷲津砦の陥落で重臣・佐久間盛重、織田信平が討ち死にした事を知ったが、これはかえって信長方の士気高揚に繋がった。

 信長は桶狭間方面へ向かい、途中、丹下砦を経て善照寺砦に入る。この時、父の代から仕える沓掛村の梁田政綱から「沓掛城を出た義元は大高城へ向かい、桶狭間付近にあり」との情報が入る。信長は鳴海城方面の敵に佐々政次ら200騎を充て、今川の先鋒に対する陽動作戦を行い、自らは本体を率いて中島へ向かう。その道は細い道で、敵方も丸見えなので、家老たちから迂回路を取るよう諫められたが、信長は聞かずまっすぐ進んだ。従来は迂回説が強かったが、そのルートは深い藪で、軍が進むには困難で時間もかかり、現在は否定されている。故に「信長公記」による現在の説による
F90_2 途中、「義元田楽狭間(桶狭間の一部)で昼食中」の情報が入る。信長は「目指すは義元の首一つ」と将兵に命じ、信長軍は突然降り出した豪雨の中を義元本陣をめざしひた走った。
 その頃、緒戦勝利の気分に酔う義元はわずか300ばかりの旗本勢に守られ田楽狭間で休息中だった。この報告を得た信長は、田楽狭間が縦に長く狭い窪地で、大軍は縦の長い隊列となる事を知っており、そこに勝機を見つけた。降り出した雨は大雨となり、嵐さながらの中を、信長軍が今川勢を襲った。激しい攻防の中、信長近臣の服部小平太が槍で義元に襲い掛かり、続く毛利新介義元の首を刎ね、残る今川勢は脆くも東に敗走した。その後、駿河国は人質だった松平元康(徳川家康)が自立し、更に武田軍の侵攻で、1569年(永禄12)、氏真の代に今川氏は滅亡した。そして信長は家康と同盟を結び東を憂慮することなく、美濃攻略を展開する。

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2014年1月15日 (水)

冬の風景4 日脚伸ぶ

 寒い寒いと言っている内に、段々と夜明けが早く、日暮れが遅くなって、少しずつ春めいてきた。この様な今頃の状態を「日脚伸ぶ」という。冬至が過ぎると、畳一目ずつ日が長くなる云われるが、実際に日が伸びたと感じるのは立春すぎともいわれる。
 そのような状態で、当地では柑橘類(夏柑、金柑、レモン、温州など)が、昔からの家の庭には必ず植わっており、その実が黄色く色づいて目を引く頃となり、春の気配を感じるようになった。その中で、今日は庭植えには珍しいが、時々見掛ける「デコポン」が沢山色づいていたので撮って来たもの。尚、春まだ浅い時期を詠った「日脚伸ぶ」の句と共に紹介。
 日脚伸ぶ今年為すこと多きかな(高浜虚子)
 これよりは心の余裕日脚伸ぶ(稲畑汀子)
 狂人も狡き日のあり日脚伸ぶ(中村草田男)
 ひと〆の海苔の軽ろさや日脚伸ぶ(鈴木真沙女)
Photo デコポン。民家の庭横に3本植えれているもの。デコポンは熊本農水果樹試験場で、凸がある清見オレンジとポンカンを交配して、在来の果樹に接木してできたもので、平成2年にデビュー。糖度は13度以上で、香りがよく皮がむきやすい。

Photo_2 拡大写真。今年の凸(デコ)部分は余り大きくないが、開花期に昼夜の温度差があるほど、凸が出来やすく大きな凸となる。凸の無いのもあるそうだが、品質、価格は変わらないそうだ。デコポンも晩柑橘類特有の追熟(収穫してから冷暗所に保存)してから出荷される。

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2014年1月14日 (火)

争乱の戦国史89(室町Ⅳ29): 今川義元、上洛の途へ

 今川氏は義元より7代前の足利一族が今川氏を名乗り、その孫・範国遠江・駿河の守護として威勢を振るった。それから5代目の氏親(義元の父)の時には全国に先駆け領国の検地を断行し、1526年(大永6)には分国法をもつ戦国大名に成長していた。氏親の長子・氏輝没後、義元は家督を次兄と争い勝とり、武略を以て三河国をも領国とした。1542年(天文11)、隣国・織田信秀と三河小豆坂に戦ったのをはじめ、尾張の諸城に攻撃をかけた。1553年(天文22)、三河侵攻の隙に北条氏康に駿河を侵されたが、武田信玄の出兵援助を求め、結果三者が「三国同盟」を結び後顧の憂いを絶った。義元は領国経営に熱心であり、且つ公家貴族の生活にも倣い、京への憧憬も強かったという。

 1554年(天文23)には自ら岡崎に布陣し尾張小川城を攻めんとしたが、信長の奇襲に敗れた。この苦い経験を踏んで、1558年2月(永禄元)松平元康(後の徳川家康、当時今川軍の一方の大将であった)に命じ織田方の寺部・広瀬両城を攻めて勝ち、3月には尾張・知多郡は殆ど今川に属した
F89_2 こうして上洛の条件を整えた義元は、1560年5月12日(永禄3)、駿河・遠江・三河の三国の軍を率いて西上の途についた。その兵2万5千とも4万とも言われた。5月17日、今川軍の先鋒は尾張国沓掛に着し、16日義元は岡崎城に至り、18日には沓掛城に至り、諸将の部署を定め、先鋒を鳴海に向かわせ、松平元康を丸根に、朝比奈泰能を鷲津に向かわせた。
 これに対し、織田氏は丹下・中島・善照寺・鷲津・丸根の5砦を設け、前三者は鳴海城を、後二者は今川武将の大高城に近く、両城遮断を狙った。当然今川方の攻撃も鷲津・丸根に向けられ、元康に命じて兵糧を大高城に入れさせた。19日の払暁、元康の攻撃で丸根城落とされ、ついで鷲津城も落ちて、夫々の守将・佐久間大学、織田玄蕃が戦死。これで、今川氏の尾張侵入は半ば奏功したとして桶狭間に掛かった義元の本陣はそのまま田楽狭間で休止した。
 一方、18日夕、織田方では清州の信長に、物見や砦からしきりに急報が入り、この戦いをどうするか議論があったが、信長は一向に軍議に触れず、夜には家臣を帰宅させたという。

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2014年1月13日 (月)

冬の風景3 風花舞う

 典型的な西高東低の冬型気圧配置が続き、福岡では昨日、今日が今冬最高の冷え込みとか。この気圧配置の時は概ね晴れていても、空気は冷たく、急に雲が走り、雪がちらつく。この時々ちらつく雪の事を「風花」という。
 特にこの写真の池は山裾に在り、地形の関係や夏は通り雨、冬は時々雪が舞いやすい所である。裏日本の冬型天候の特徴であろう。この時分に博多湾の和白干潟には多くの渡り鳥(貴重な絶滅危惧種も含め、世界的に有名である)が飛来し、その逸(ハグ)れ鳥が写真の様に溜池や多々良川に飛来する。今日は風花の句を添えて、白鷺(シラサギ)を紹介
 風花や汽笛ふくらむ飛騨の谷(藤田湘子)風花の大きく白く一つ来る(阿波野青畝)
 雪となく風花となく湖の町(岡田日郎) 風花や湯槽あまたに人ひとり(水原秋桜子)
Photo シラサギ(白鷺)。和白干潟に近い多々良川河口にはカモ類や海猫たちが群れて飛び或いは波に揺れている。それよりやや上流5、6羽の白鷺が飛んでくることが多い。時にはアオサギやクロサギもよく見かける。その群れから更に外れて、このように溜池に飛来し小魚を啄んでいることが多い。
Photo_2 風格のダイサギ(大鷺)。日本の白鷺はダイサギ、チュウサギ、コサギ、カラシサギがいる。写真より小さいコサギは渡らず、1年中いるが、この大型は冬場に飛来する。サギは渓流など清冽な水域には棲息せず、富栄養化が進んだ水域に見られる。

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2014年1月11日 (土)

争乱の戦国史88(室町Ⅳ28): 浮野の合戦と尾張統一

 1558年5月(永禄元)、尾張上四郡を支配する岩倉織田氏の織田信安は、家督相続問題で子の信賢(ノブカタ)と争い追放される。後を襲った信賢は美濃の斎藤義龍と結び、力をつけてきた織田信長への対決姿勢を鮮明にし始めた。
 この機に信長は信賢の居城・岩倉城攻めに着手し、同7月「浮野の合戦」(浮野:現愛知・一宮)で信賢に勝利した。敗れた信賢は岩倉城へ敗走し、信長は城を包囲。以後数ヶ月に亘る籠城戦を展開した。

 同じ年、信長の弟・信行と彼を推す勢力が再び反乱を企てる。しかし、前回信行を擁して信長に敵対した柴田勝家は今回は信行を見限り信長に密告した。これを知った信長は、病気と偽り清州城に籠り、勝家を介して兄弟の母・土田御前を動かし、信行を清州へ見舞に行くように仕向けた。反乱計画漏れを知らず、11月2日に清州城に赴いた信行は信長に殺された
 柴田勝家はこれを機に信長の側近となり、後の織田軍団の中心的存在となって、一度は背いたものの、信長も彼を生涯重用し続ける。
F88 こうして、岩倉織田氏、及び弟・信行を葬った信長は、尾張統一へ大きく踏み出した。尤も、岩倉織田氏支持の国人勢力も依然多く、又尾張の最南端に当る知多郡は今川義元支配下にあり、未だ尾張の完全支配には多くの障害も残っていたのである。(信長像
 そこで、信長は1559年2月(永禄2)、上洛して室町幕府13代将軍・足利義輝謁見する。信長は幕府に尾張の支配を認めさせ、その権威によって尾張をまとめ上げようとしたのである。この時、尾張守護に任ぜられたとする説もあるが、結果的に信長の尾張支配を将軍が黙認するところとなった。
 尾張に帰国した信長は翌3月岩倉城総攻撃を開始。岩倉城を完全破壊し、信賢を追放し、岩倉織田氏を滅亡させた。家督を継いで8年、父・信秀の果たせなかった尾張統一を、信長は成し遂げたのである。  

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2014年1月10日 (金)

冬の風景2 冬日和

 昨日今日と最高気温が5、6℃(最低ー1~0℃)と真冬の気温で、昨日は日陰でかつ風通しのいい場所の空気は本当に冷たかったが、時々曇るものの概ね晴れて、風の当らぬ日当たりを歩くと汗ばんだ。こんな日を12月は「小春日(和)」というが、1月には「冬日和」という。
 そんな心が和む冬日和の中で、花が数少ない時期だけに、ひと際鮮やか咲いている真紅のバラ一株だけ沢山の花を付けているのが目立った。多分秋咲のバラが暮れから咲き続けているのだろう。今回は冬日和を詠った句をご紹介して置こう。
 山路見ゆ瀧川ごしの冬日和(飯田蛇笏)
 駆けてゐる少年少女冬日和(星野立子:虚子の次女)
 たのしげに煙立のぼる冬日和(日野草城)
 山国や夢のやうなる冬日和(阿波野青畝)
Photo バラ(薔薇)。バラは日本にも昔から自生していた。園芸種の原種の内、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシの3種は日本原産だそうだ。万葉時代はうまら、うばらなどとよばれ、常陸風土記にあるウバラギ(茨城)が茨城県名の由来との事。江戸時代からバラづくりはあったが、本格的には明治以降という。
Photo_2 接写の明治政府がラ・フランスを試験的にいれ、青山官制農園(現・東大農学部)で栽培させたのが始まりで、当初は高級品だった。大正~昭和になってやっと一般的になった由。この花の品種は不明だが、朱赤のバラは8月の誕生月花という。尚、薔薇の実は利尿作用があり、薬用にも使われる由。

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2014年1月 9日 (木)

争乱の戦国史87(室町Ⅳ27): 道三の死と尾張の内乱

 斎藤道三は娘婿・織田信長を正徳寺での会見以来、高く評価し同盟関係を強化して、1554年正月(天文23)、道三は駿河の今川勢を相手に苦戦する信長に1千の援軍を送った。
 その一方で、実子の稲葉山城主・斎藤義竜との関係は悪化しつつあった。義竜には1548年(天文17)に家督を譲っていたものの、実権は相変わらず道三が握り続けたため、義竜は道三に対して不信感を抱くようになっていた。
F87 1555年(弘治元)義竜は二人の弟を殺害し、道三とは断絶。両者は長良川を挟んで、対岸の稲葉山城鷲山城(道三の居城)に兵を集め父子が対峙する事態となった。これを「長良川の戦い」と称する。
 この戦は終始義竜有利の展開となり、1556年4月(弘治2)、道三の敗死によって決着。下剋上の象徴と言われた道三も、国内が殆ど義竜に味方する状況を覆せなかった。道三を救うため美濃へ兵を進めていた信長も、道三死去の報に為す術なく引き返した。(図:斉藤道三(右)と義竜(左)父子図(東大史料編纂所蔵より))

 道三の死去で信長と美濃は再び敵対し、又尾張内でも、後ろ盾の道三を失った信長に対し、家督相続で不満を持っていた反信長派行動を開始した。
 1556年(弘治2)、弟の末森城主・信行が反旗を翻した。これは信行の家老・林秀貞とその弟・林美作守、柴田勝家らが中心になり、信長を廃し信行を当主に擁立しようとしたもの。挙兵した信行勢は約千七百。対し信長勢は七百ほどだった。両者は稲生原で衝突。当初は信行側が圧倒したが、乱戦の中、果敢に切り込んだ信長林美作守の首級を挙げて形勢は一気に逆転、信長側の圧勝となった。これを「稲生原の戦い」と称する。信行の母・土田御前の信行の命乞いを信長が聞き入れたので、信行擁立は一旦終息した。

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2014年1月 8日 (水)

冬の風景1 水澄む

 寒い冬で花も少ないので、逆に冬らしい風景ながら、正月でもあり、ひと際明るく美しくて、なんとなく目出度い感じの風景を数回シリーズで載せてみよう
 今回は「水澄む」をタイトルにしたが、俳句では秋の季語ながら、秋から春先にかけて、小川や池、湖沼の水は、動物やバクテリアの活動が無く、濁らず非常に澄んで綺麗だ。図書館の庭園の池に泳いでいる鯉が非常にはっきり見えて美しく見えたので撮った。尚、澄んだ水と鯉を詠った俳句を4句紹介しておこう。
 鯉一つ影一つ曳き水澄める(乗光雅子)  金粉の鯉のうろこに水澄めり(峰雪夫)
 高そうな鯉を沈めて水澄めり(稲畑廣太郎) 今年子の彩鯉美しく水澄める(福盛悦子)
Photo コイ:鯉。フナとの違いは頭、目がやや小さく、口ひげが2対あること。食性は雑食性で水草、貝類、ミミズ、昆虫・甲虫類、蛙、小魚など何でも食べる悪食。口に歯はないが、喉の咽頭歯で、貝でも噛み砕く。養殖は野生より太身で動きが鈍い。
Photo_2 観賞魚・ニシキゴイ(錦鯉)。鑑賞用に普通の鯉を養殖したもの。黒以外の鯉を色鯉と言い、多いのが緋鯉。中でも色彩や斑点など体色を改良したものを錦鯉(写真)といい、日本の国魚となっている。19世紀に新潟の山古志村で始まったもの。裕福な地方で昔から鯉を養殖する習慣があり、錦鯉の交配が進んだとか。

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2014年1月 7日 (火)

争乱の戦国史86(室町Ⅳ26): 元就 厳島合戦を制す

 毛利元就は小早川・吉川両家創設で毛利両川体制を確立したが、井上一族の横暴になやまされ、1550年(天文19)、一族長老・元兼以下数十名の罪状を数え上げ粛清を断行、権限を一手に掌握し家臣に服従を誓わせ、名実ともに戦国大名へ飛躍したのである。一方、周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸の守護をつとめた大内義隆であったが、1551年(天文20)、家臣・陶晴賢(スエハルカタ)が挙兵して、自刃に追い込まれた。晴賢は義隆の猶子、豊後の大名・大友義鎮(ヨシシゲ)の弟・晴英(ハルフサ)(のち義長)に大内氏を継がせ、自ら実権を掌握した。
 安芸随一の国人領主となった毛利元就は、当初陶晴賢に恭順の姿勢をみせたが、次第に対立が表面化1554年(天文23)、晴賢と対戦し緒戦で勝利する。その翌弘治元年10月、厳島合戦が起こる。(厳島合戦進路図、「図解戦国史」(成美堂出版)より)
F86 元就は兵力差が5倍という晴賢に立ち向かうため、謀略を用いた。先ず、晴賢の腹心・江良房英毛利内通の偽情報を流し、晴賢は房英を誅殺して戦力低下した。又、晴賢に瀬戸内警護料徴収を禁じられた村上水軍を味方につけ、海戦に備えた。そして1555年4月(弘治元)、厳島を占領して宮尾城を築き合戦場と定めた。その上元就は重臣・桂元澄に偽りの内通をさせ、陶軍が厳島に出陣する様誘導させた。その結果1555年9月、厳島・宮尾城を包囲した2万の陶軍に対し、10月、前夜暴風雨をおして厳島に上陸した約3千の毛利軍が陶軍の背後から奇襲を敢行。突然の敵襲に陶軍は大混乱。海上には村上水軍が待ち受け、陶軍は大きな犠牲をだし敗北。陶晴賢は自刃して果てた。

 こうして、毛利氏の周防・長門侵出が始まった。周防山代地方では地侍中心の軍団「地下人一揆」に苦しんだが、元就は計略によって周防侵出に成功し、遂に大内義長は長門に追い詰められ、1557年4月(弘治3)長府で自刃して果てた。
 元就は防長征服が成就して中国覇者となったが、この軍事的勝利は大内氏の領国であったから、領主達との契約に拠らず、領国支配権を継承することに成功した点は重要であった。

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2014年1月 6日 (月)

蝋梅が咲いた

 明けましておめでとうございます。正月休んでいたブログを今日から再開します。今年もよろしくご愛顧の程を願います。
 休んでいたウオーキング昨日から開始した。冬枯れ時期で、山茶花や水仙以外殆ど花のない時期、うれしいことに蝋梅が最早花を付けているのを見つけた。年末から寒さが緩んでいるせいで、一気に咲いたのであろう。今日はそれを紹介。
Photo ロウバイ(蝋梅)。唐からの渡来故、唐梅とも。又は花弁が蝋細工のようで、且つ蝋月(旧暦12月)に咲く故の名。日本には17世紀に渡来。かなり日陰でもよく育ち、開花する丈夫な木。晩秋にはこげ茶色の実がなるので、冬に蒔いて5㎜程覆土すると春分過ぎて生えてくるという。
Photo_2 満開の。この様に蕊が見えるような全開状態の花が珍しいので撮った。御存じのように大変いい香りを放っている。この花は内側も黄色なので、「素心蝋梅」と云う品種であろう。蝋細工のような花と云うのがお判り頂けるか。新葉は未だ出ず、花だけの樹である。
 Jpg
 下
通常の。今は未だこの状態の花が多く5、6分咲き蝋梅の花は新枝や伸びた枝には咲かず、枝や幹の基部の短い枝に付く性質がある。故に長く伸びた枝は、落葉後20cm位に切り詰めて置く。又内側に向かって密生する枝も切詰めると、翌年の花付きが良いそうだ。

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