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2014年1月31日 (金)

争乱の戦国史95(室町Ⅳ35): 家康、三河統一と遠江奪取

 西三河の国人・松平宗家7代・清康は勢力を伸ばし、三河を統一する。ついで1535(天文4)、織田家の拠点の近くの守山まで迫ったが、松平家家臣に間違って暗殺される(守山崩れという)。結果、松平家は分裂、衰退していった。
 1540年(天文9)、織田信秀は三河の混乱に乗じ安祥城を占領。今川義元は大軍を率い三河に入り、1542年8月(天文11)小豆坂合戦、今川軍が敗れた
 松平8代・広忠(家康の父)は、織田氏の三河制圧阻止のため、今川氏と組み一子・竹千代(家康)を人質としたため、1547年8月(天文11)、岡崎を発した竹千代は、途中織田方武将に奪われ、織田方の人質となる。翌年3月今川義元は再び三河・小豆坂に戦いに勝って、更に安祥城を攻め信秀の一子信広を捕えた。そこで、竹千代と信広の人質交換で和議が成立。竹千代(元康と名乗る)が駿府にあり、一族家臣は今川氏配下に組み込まれた。
F95_2 ところが桶狭間の戦いで、義元が討ち死にし、状況が一変した。居城の岡崎城に戻った元康(家康)は信長と同盟を結び、家康と改名。今川家の支配から離脱した。続いて三河の統一をめざし西三河、東三河に兵を進めた。その途上、本願寺門徒の一向一揆が発生した際、本多正信他多くの家臣が一揆に加担し、非常な苦戦を強いられたがこれを平定し、1564年(永禄7)ほぼ三河を統一した。翌々年(1566年)、姓を徳川に改め、従五位下に叙せられ三河守に任じられ、名実ともに三河の太守となった。かくして戦国大名の確固たる地位を築いた。(徳川家康像(豊田市・隣松寺蔵))

 家康の次なる狙いはかっての主家・今川家の領地であった。義元の跡を継いだ氏真は公家趣味で家臣の統制ができず、衰退していた。そこで、1568年(永禄11)、家康は甲斐の武田信玄と組み1569年(永禄12)、一気になだれ込んだ両軍が今川領を蹂躪し、掛川城に氏真を攻め、今川家を滅ぼした。今川家旧領の内、駿河は武田家遠江は徳川家のものになった。2ヶ国の大名となった家康は、1570年(元亀元)浜名湖のほとりを「浜松」と改名しここに城を築き、新たな本拠地とした。

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