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2014年1月29日 (水)

争乱の戦国史94(室町Ⅳ34): 信長、美濃攻略

 織田信長は桶狭間の勝利(1560年)から美濃攻略まで7年間を要する。強敵であり、一筋縄では対応できない相手で、信長は武力だけでは無理だと判じ、美濃の国人勢力を調略によって味方につけ徐々に切り崩していった。
 中でも重要だと考えたのは美濃の知将・竹中半兵衛を味方に付けることであった。半兵衛は美濃・斎藤氏に仕える菩提山城主・竹中重元の嫡男として生まれ、斎藤龍興(道三の孫)に仕えていた。1564年(永禄7)、元々半兵衛を軽んじた主君・龍興から或る時侮辱されたことで怒った半兵衛は父・重元と謀り、稲葉山に乗り込み、わずか16名の手勢でこれを占拠、竜興を城外に追いやった
 これを聞いた信長は直ぐに半兵衛に「稲葉山城を明け渡せば美濃半国を与える」と持ちかけたが、半兵衛は「国を取る気はない、あくまで主君を諫める行動だった」と稲葉山から退去し、浅井家の客分として近江国に隠居してしまった。
 それでも諦めきれなかった信長は木下藤吉郎(のち羽柴秀吉)に説得させ、結果、藤吉郎の説得に応じ、羽柴配下の腹心として各地の戦いに活躍したと言われる。

F94 1561年(永禄4)、美濃城主・斎藤義龍(道三の子)が病死し、若い(13歳)龍興跡を継いだとき、信長は美濃攻略の好機到来として調略を仕掛けた。1567年8月1日(永禄10)先ず、斎藤家重臣で西部に大きな勢力を持つ稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守成の「西美濃三人衆」裏切らせることに成功した。これにより斎藤家の衰退は決定的となり、8月15日、信長はその隙を突き、三河遠征を装って集めた兵を挙げ、一挙に総攻撃を開始した。余りの速攻に、斎藤方は家臣団を集結する間もなく、翌日には稲葉山城は落城し、龍興は伊勢に遁れて、道三以来の斎藤氏は滅亡した。(図解戦国史(成美堂出版)より)
 こうして美濃を手に入れた信長は稲葉山城のあった場所に新たに城を築き岐阜城と名付け、本拠地を移して、城下町の形成に力を注いだ(美濃加納に楽市令を発する)。この戦勝で塞がれていた西上のルートが開けたのである。この頃から、信長は「天下布武」の印を使い始めている。天下を自らの手で統一する意思を示し始めた時期である

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