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2014年1月27日 (月)

争乱の戦国史93(室町Ⅳ33): 藤吉郎、一夜城築城

 1562年正月(永禄5)織田信長は三河の松平家康と清州城で会見、家康嫡男・竹千代と信長娘・五徳の婚儀を結び、堅い盟約(清州同盟)を取り交わして、信長は美濃・近江・伊勢に向かい、家康は遠江・駿河に向かう約束をする。
F93 その結果信長は心おきなく美濃攻略に打ち込めるようになり、1563年7月(永禄6)には清州から小牧山に居城を移し、適地墨俣に城塁を築き美濃攻略に乗り出す。(は居城を移した小牧山城跡)。
 墨俣は長良川、木曽川の合流点であり、交通の要衝で、且つ稲葉山城が見通せる戦略上の要衝でもあった。美濃は道三の死後、後を継いだ義龍は巧みに国内勢力をまとめ、尾張の攻撃をかわしていた。その義龍も桶狭間の翌年1561年病死したが、後を継いだ龍興も父の作り上げた体制を受け継ぎ、頑強に抵抗していた。
 当初信長は、墨俣築城を重臣の佐久間信盛や柴田勝家に命じたが、いずれも失敗していた。そこで信長は木下藤吉郎(のち羽柴秀吉)に築城を命じた。
 藤吉郎は桶狭間の戦い前後から信長の身辺につき従っていた。この頃、藤吉郎は川筋の者たちとも交流を持ち、又木曽川のデルタ地帯の蜂須賀の土豪・蜂須賀小六とも親交があった。藤吉郎は彼等を利用することを考え、1566年(永禄9)に小六とコンビを組み、在地武士や船頭、馬借、樵、大工を集めた混成団(2,000人を超えたとも言う)で、前後7日間で見事砦を築き上げたと云われる。
 その秘密は木曽川上流で切り出した材木は順次加工して木曽川を流し、墨俣では順次組立ててゆくという流れ作業方式で行い、短時間での構築を実現したであろうと考えられる。

 しかし、これは『武功夜話』に出る話で、比較的信憑性のある『信長公記』では、既に墨俣には砦があったとあり、実際には信長の陣頭指揮で築かれたとする見方が増えてきている。ともあれ、この期に藤吉郎は頭角を現し、織田家中に知られるようになった。

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