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2014年1月16日 (木)

争乱の戦国史90(室町Ⅳ30): 桶狭間の戦い

 今川軍の織田領内への侵攻、苦戦の砦、出城からの報にも織田信長は動かず、平常通り床に就いたが、翌1560年5月19日早朝、清州城の信長の元へ鷲津・丸根の砦に今川勢の先鋒が攻めかかったとの知らせが入った。これを聞いて信長は幸若舞「敦盛」を舞い、側近の従者数名を従え清州城を出て、熱田神宮に参拝、必勝祈願ををした。この間駆けつけた軍勢も徐々に増加、約3千弱の軍勢を従えて出陣となった。途中、丸根・鷲津砦の陥落で重臣・佐久間盛重、織田信平が討ち死にした事を知ったが、これはかえって信長方の士気高揚に繋がった。

 信長は桶狭間方面へ向かい、途中、丹下砦を経て善照寺砦に入る。この時、父の代から仕える沓掛村の梁田政綱から「沓掛城を出た義元は大高城へ向かい、桶狭間付近にあり」との情報が入る。信長は鳴海城方面の敵に佐々政次ら200騎を充て、今川の先鋒に対する陽動作戦を行い、自らは本体を率いて中島へ向かう。その道は細い道で、敵方も丸見えなので、家老たちから迂回路を取るよう諫められたが、信長は聞かずまっすぐ進んだ。従来は迂回説が強かったが、そのルートは深い藪で、軍が進むには困難で時間もかかり、現在は否定されている。故に「信長公記」による現在の説による
F90_2 途中、「義元田楽狭間(桶狭間の一部)で昼食中」の情報が入る。信長は「目指すは義元の首一つ」と将兵に命じ、信長軍は突然降り出した豪雨の中を義元本陣をめざしひた走った。
 その頃、緒戦勝利の気分に酔う義元はわずか300ばかりの旗本勢に守られ田楽狭間で休息中だった。この報告を得た信長は、田楽狭間が縦に長く狭い窪地で、大軍は縦の長い隊列となる事を知っており、そこに勝機を見つけた。降り出した雨は大雨となり、嵐さながらの中を、信長軍が今川勢を襲った。激しい攻防の中、信長近臣の服部小平太が槍で義元に襲い掛かり、続く毛利新介義元の首を刎ね、残る今川勢は脆くも東に敗走した。その後、駿河国は人質だった松平元康(徳川家康)が自立し、更に武田軍の侵攻で、1569年(永禄12)、氏真の代に今川氏は滅亡した。そして信長は家康と同盟を結び東を憂慮することなく、美濃攻略を展開する。

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