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2014年1月14日 (火)

争乱の戦国史89(室町Ⅳ29): 今川義元、上洛の途へ

 今川氏は義元より7代前の足利一族が今川氏を名乗り、その孫・範国遠江・駿河の守護として威勢を振るった。それから5代目の氏親(義元の父)の時には全国に先駆け領国の検地を断行し、1526年(大永6)には分国法をもつ戦国大名に成長していた。氏親の長子・氏輝没後、義元は家督を次兄と争い勝とり、武略を以て三河国をも領国とした。1542年(天文11)、隣国・織田信秀と三河小豆坂に戦ったのをはじめ、尾張の諸城に攻撃をかけた。1553年(天文22)、三河侵攻の隙に北条氏康に駿河を侵されたが、武田信玄の出兵援助を求め、結果三者が「三国同盟」を結び後顧の憂いを絶った。義元は領国経営に熱心であり、且つ公家貴族の生活にも倣い、京への憧憬も強かったという。

 1554年(天文23)には自ら岡崎に布陣し尾張小川城を攻めんとしたが、信長の奇襲に敗れた。この苦い経験を踏んで、1558年2月(永禄元)松平元康(後の徳川家康、当時今川軍の一方の大将であった)に命じ織田方の寺部・広瀬両城を攻めて勝ち、3月には尾張・知多郡は殆ど今川に属した
F89_2 こうして上洛の条件を整えた義元は、1560年5月12日(永禄3)、駿河・遠江・三河の三国の軍を率いて西上の途についた。その兵2万5千とも4万とも言われた。5月17日、今川軍の先鋒は尾張国沓掛に着し、16日義元は岡崎城に至り、18日には沓掛城に至り、諸将の部署を定め、先鋒を鳴海に向かわせ、松平元康を丸根に、朝比奈泰能を鷲津に向かわせた。
 これに対し、織田氏は丹下・中島・善照寺・鷲津・丸根の5砦を設け、前三者は鳴海城を、後二者は今川武将の大高城に近く、両城遮断を狙った。当然今川方の攻撃も鷲津・丸根に向けられ、元康に命じて兵糧を大高城に入れさせた。19日の払暁、元康の攻撃で丸根城落とされ、ついで鷲津城も落ちて、夫々の守将・佐久間大学、織田玄蕃が戦死。これで、今川氏の尾張侵入は半ば奏功したとして桶狭間に掛かった義元の本陣はそのまま田楽狭間で休止した。
 一方、18日夕、織田方では清州の信長に、物見や砦からしきりに急報が入り、この戦いをどうするか議論があったが、信長は一向に軍議に触れず、夜には家臣を帰宅させたという。

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