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2014年1月 9日 (木)

争乱の戦国史87(室町Ⅳ27): 道三の死と尾張の内乱

 斎藤道三は娘婿・織田信長を正徳寺での会見以来、高く評価し同盟関係を強化して、1554年正月(天文23)、道三は駿河の今川勢を相手に苦戦する信長に1千の援軍を送った。
 その一方で、実子の稲葉山城主・斎藤義竜との関係は悪化しつつあった。義竜には1548年(天文17)に家督を譲っていたものの、実権は相変わらず道三が握り続けたため、義竜は道三に対して不信感を抱くようになっていた。
F87 1555年(弘治元)義竜は二人の弟を殺害し、道三とは断絶。両者は長良川を挟んで、対岸の稲葉山城鷲山城(道三の居城)に兵を集め父子が対峙する事態となった。これを「長良川の戦い」と称する。
 この戦は終始義竜有利の展開となり、1556年4月(弘治2)、道三の敗死によって決着。下剋上の象徴と言われた道三も、国内が殆ど義竜に味方する状況を覆せなかった。道三を救うため美濃へ兵を進めていた信長も、道三死去の報に為す術なく引き返した。(図:斉藤道三(右)と義竜(左)父子図(東大史料編纂所蔵より))

 道三の死去で信長と美濃は再び敵対し、又尾張内でも、後ろ盾の道三を失った信長に対し、家督相続で不満を持っていた反信長派行動を開始した。
 1556年(弘治2)、弟の末森城主・信行が反旗を翻した。これは信行の家老・林秀貞とその弟・林美作守、柴田勝家らが中心になり、信長を廃し信行を当主に擁立しようとしたもの。挙兵した信行勢は約千七百。対し信長勢は七百ほどだった。両者は稲生原で衝突。当初は信行側が圧倒したが、乱戦の中、果敢に切り込んだ信長林美作守の首級を挙げて形勢は一気に逆転、信長側の圧勝となった。これを「稲生原の戦い」と称する。信行の母・土田御前の信行の命乞いを信長が聞き入れたので、信行擁立は一旦終息した。

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