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2014年1月 7日 (火)

争乱の戦国史86(室町Ⅳ26): 元就 厳島合戦を制す

 毛利元就は小早川・吉川両家創設で毛利両川体制を確立したが、井上一族の横暴になやまされ、1550年(天文19)、一族長老・元兼以下数十名の罪状を数え上げ粛清を断行、権限を一手に掌握し家臣に服従を誓わせ、名実ともに戦国大名へ飛躍したのである。一方、周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸の守護をつとめた大内義隆であったが、1551年(天文20)、家臣・陶晴賢(スエハルカタ)が挙兵して、自刃に追い込まれた。晴賢は義隆の猶子、豊後の大名・大友義鎮(ヨシシゲ)の弟・晴英(ハルフサ)(のち義長)に大内氏を継がせ、自ら実権を掌握した。
 安芸随一の国人領主となった毛利元就は、当初陶晴賢に恭順の姿勢をみせたが、次第に対立が表面化1554年(天文23)、晴賢と対戦し緒戦で勝利する。その翌弘治元年10月、厳島合戦が起こる。(厳島合戦進路図、「図解戦国史」(成美堂出版)より)
F86 元就は兵力差が5倍という晴賢に立ち向かうため、謀略を用いた。先ず、晴賢の腹心・江良房英毛利内通の偽情報を流し、晴賢は房英を誅殺して戦力低下した。又、晴賢に瀬戸内警護料徴収を禁じられた村上水軍を味方につけ、海戦に備えた。そして1555年4月(弘治元)、厳島を占領して宮尾城を築き合戦場と定めた。その上元就は重臣・桂元澄に偽りの内通をさせ、陶軍が厳島に出陣する様誘導させた。その結果1555年9月、厳島・宮尾城を包囲した2万の陶軍に対し、10月、前夜暴風雨をおして厳島に上陸した約3千の毛利軍が陶軍の背後から奇襲を敢行。突然の敵襲に陶軍は大混乱。海上には村上水軍が待ち受け、陶軍は大きな犠牲をだし敗北。陶晴賢は自刃して果てた。

 こうして、毛利氏の周防・長門侵出が始まった。周防山代地方では地侍中心の軍団「地下人一揆」に苦しんだが、元就は計略によって周防侵出に成功し、遂に大内義長は長門に追い詰められ、1557年4月(弘治3)長府で自刃して果てた。
 元就は防長征服が成就して中国覇者となったが、この軍事的勝利は大内氏の領国であったから、領主達との契約に拠らず、領国支配権を継承することに成功した点は重要であった。

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