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2013年12月

2013年12月27日 (金)

お屠蘇についての薀蓄(ウンチク)

 正月が近づいて来たので、元旦にお節と共に欠かせない「お屠蘇」につての薀蓄を記載する。新年会の肴にしてください。
 正月に飲むお酒を「おとそ」というと勘違いされてる方もおられるので、先ずお屠蘇とはから。屠蘇とは「蘇(悪鬼・邪)を屠(ホフ)る」或いは「悪鬼を屠り、魂を蘇生させること」をいう。で、そのために「屠蘇散」と云う漢方薬を大晦日に清酒に浸しておき元日の朝、雑煮を祝う前にその年の健康長寿・来福を祈って飲むのが伝統的な正月行事である。

 この屠蘇散の処方漢方の「本草綱目」では赤朮(セキジュツ)、桂心、防風、抜契、大黄、鳥頭、赤小豆を上げているが、現在山椒、細辛、防風、肉桂、蜜柑皮、白朮(ビャクジュツ)、桔梗を用いるのが一般的という。この中の防風と桔梗は感冒薬消化機能を高めるのが白朮と山椒、体を温めるのが肉桂、下剤の大黄であるが、基本的に健胃の効能と初期の風を防ぐ薬効を持つ。但し、大黄は作用が強すぎるので最近は使われてないという。
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 漢方薬であるから体質の違いによって、よく効く人や、逆に血行不良となって炎症悪化にもなることから、屠蘇酒用に売られているのは、通常の屠蘇散の1割程度の量にしてあるので、心配ないという。

 正月はえてして、昔から食べ過ぎ、飲みすぎで体を痛めるので、冷え症や、胃腸や呼吸器系の弱い部分にそれぞれ効く漢方薬が処方されたようで、江戸時代ではたまった治療代を年の暮れに支払いに行くと、漢方医や薬屋が屠蘇散を手渡す習慣があったそうだ。

 当ブログ、正月5日まで、お休みとします。向後ともご愛読の程お願い申し上げます。
 

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2013年12月26日 (木)

争乱の戦国史85(室町Ⅳ25): 関東の覇権争いと越相同盟

 相甲駿の三国同盟も夫々の置かれた立場の相違で、綻びが出始める。
 1554年(天文23)、北条氏では氏康が前古河公方の足利晴氏とその子・藤氏を攻めた。これは、甥で古河公方家の家督を継いだ義氏(母が北条氏綱の娘)を戴く、北条氏を中心とした関東の体制つくりを進めて行くためである。
F85 これ以降、北条氏に対立する関東の勢力は、越後の上杉謙信と結びつくようになり上記足利藤氏や北関東の勢力は、反北条派の佐竹・小田・宇都宮・小山(オヤマ)各氏も謙信と通じて行く。(北条氏康画像・法雲寺蔵)
 一方、下総結城の結城氏は、北条氏と足利義氏に属し、「結城氏親法度」なる分国法を制定するなど、家臣団・領内支配を強化し、佐竹氏らと厳しく対立した。1561年(永禄4)の上杉氏中心の反北条派の小田原城包囲網は、このようにして形成され、北条氏にとっては大きな脅威であった。

 しかし、これを籠城戦で切り抜けた北条氏は、1564年には安房・里見氏、武蔵岩槻(埼玉・岩槻市)・大田氏を下総国府台(コウノダイ)(現市川市内)で破り、江戸地域をほぼ完全に掌握して、更に北関東進出の基礎固めを成した。
 1561年(永禄4)以来、1567年(永禄10)までの間に、謙信関東で正月を迎えるのは5回にも及んだのである。ところが、謙信が関東を去ると、氏康が関東に進出して諸城を制圧した。しかし、このシーソーゲームも本拠の近い氏康方の勝利となって終わる。そして謙信はその7年間夏と秋は越後と信濃で信玄と戦い、冬と春は関東で戦って、何も得るところなく敗退せざるを得なかった。それは謙信が関東管領として関東征討ではなく、鎮定を責務とした故でないか。

 その後、武田氏からの同盟破約によって、北条氏は上野国を譲ってでも謙信と講和を結ぶ必要が生じ、1569年(永禄12)越相同盟が合意される。ところが、2年後にはこれを北条氏から破棄し、再び信玄と結んでいる。翌年謙信が信長と同盟するのはこの様な状況が背後にあった。そして今川氏が脱落してからは、残る3者の覇権争いにと進展して行く。

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2013年12月24日 (火)

今頃珍しい風船唐綿

 南スーダンでPKO(国連平和維持活動)を実施中の陸上自衛隊が保有する弾薬1万発を同じく同国でPKO実施中の韓国軍の要請により、国連を通じて無償譲渡した。PKO協力法では「国際機関への物資協力」を認めてはいるが、日本は武器輸出を禁じた「武器輸出三原則」に抵触するとして、歴代内閣はPKOでの譲渡要請にも応じてこなっかった
 今回の要請は韓国工兵隊の弾薬が不足し、この銃器に合う弾薬は日本しか保持していなかったことによるもので、工兵隊の自衛用であり、緊急性があり、人道的なものとして、例外措置としたものだ。しかし、初めての武器譲渡であれば、やはり国内での協議を経て且つ、国民の理解を得るべきではなかったか。不文律とされた領域へ踏み込むにはそれなりの諸手続き踏むべきではなかったか。なんとはない危うさが支持率に出ている感がする。
 今日は、なにかと、これらうす寒さを感じさせる歳末で見つけたフウセントウワタ。
Photo フウセントウワタ(風船唐綿)。別名フウセンダマノキ。晩秋には弾ける筈の果実が今頃見つかったので、撮ってきた。この唐綿は花より、この果実の方が面白く切り花や活花に使われる。但し、この樹液は、角膜猛毒性があり、目に入ると角膜が白く濁り、霞んで見えなくなる。点眼薬で治るが、要注意。
Photo_2 その果実。6-7月に花が咲き、続いて実が付くが、晩秋果実がわら色になると弾けて、中にある冠毛の付いた種が飛び出す。この実もそろそろ弾けてもいい筈だが、色から判断する限り、正月以降まで持ちそうだ。

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2013年12月23日 (月)

争乱の戦国史84(室町Ⅳ24): 甲相駿の三国同盟

 1540年代、甲斐、越後、相模、駿河は激しい闘争劇を繰り広げていた。
 甲斐・駿河両国間では、明応年間以来(1490年来)侵攻と和睦を繰り返したが、駿河は1536年(天文5)、今川氏輝の急死で、弟二人の家督争いに家臣団を二分した戦い(花蔵の乱)では、北条氏綱の援助で義元が勝利。家督を継いだ義元は翌年、今までの反武田の姿勢を転換し、甲斐の武田晴信の姉を室に迎え、従来の同盟・北条氏と断交。此処に武田・今川両氏の同盟関係が成立した

 一方信濃侵攻を続ける武田氏は、1548年(天文17)一度は村上義清に大敗したが、同7月村上・小笠原連合軍を破り、さらに本格的に信濃侵攻を続ける上で、背後の駿河・相模方面の安全が必須条件となった。
 ところが、義元に嫁いでいた姉が早世し、甲駿同盟の要を失った。そこで、晴信は1552年(天文21)義元・娘を嫡男・義信の室に迎えることにし、更に北条氏との講和も進め娘を北条氏康の嫡男の室に入れる約をした。こうした背景固めの上、信濃に侵攻し1553年(天文22)には村上・小笠原を越後に敗走させた。
 
F84_2 この武田氏の相模・駿河両面講和と連動したのが、北条・今川同盟だった。先の義元の政策転換は北条氏綱の駿河への出兵を誘い、以降富士川以東の領有をめぐり、北条氏と武田氏の間で、河東一乱の合戦が2度起こった。しかし、1545年(天文14)、北条方に反攻を加え、一先ず鎮静化させた今川氏は東三河への侵攻を開始した。一方の北条氏も関東制圧を本格化させていたので、北条・今川の同盟締結が両者戦略に合致したのである。
 1554年7月(天文23)、北条氏康の娘が今川氏真に嫁ぎ、武田晴信の娘は12月、北条氏に嫁いで三国同盟がなった。
 この三国同盟は、義元の参謀太原雪斎の画策だったとされるが、今川家にとっては西に向けての勢力拡大の画策があり、西進のためには武田家と北条家の警戒不要の状況が必須だった。また、武田家と北条家にとっては夫々信濃の安定化と関東の反北条勢力の打倒のため必須であり、且つ両家に脅威の越後・上杉謙信への備えが必要だったわけである。

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2013年12月21日 (土)

「卑弥呼は福岡市付近にいた」を読む

 掲題の本が書店で目に留まったので買って来て直ぐ読んだ。著者は郷土史家ともいえる萱島伊都男氏(福岡市生まれ、東大法学部卒後、三井銀行に勤め退社後古代史研究)。私は若い時、宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」(S42年発刊)読んで以来、邪馬台国マニアとなり、以来、「邪馬台国」関連の本は30冊以上、発刊されるたび順次読んだ。が未だその所在は不明のまま。全く日本史上最大の謎である。
 で、今回この本の要点のみかいつまんでここに紹介する。
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所在の根拠:議論の元になるのは中国の陳寿がまとめた歴史書「三国志」の内の魏書・呉書・蜀書の魏書第30巻、烏桓鮮卑東夷伝のうち、最後の倭人の条で、これを『魏志倭人伝』と呼び、全部で2000字程の文章。半島から日本列島内のクニグニの所在を方角と距離を示して書いてある。がその書の通りにたどればとんでもない遠方となり、読み方が問題。
卑弥呼の読み方:ヒミコではなくヒミカ=ヒムカ即ち日向でないか。福岡と糸島の市境に「日向峠(ヒナタトウゲ)」があり、この辺り一帯の地名がヒムカ(日向)で、ここが天孫降臨の地だとする有力説があり、そこの巫女が卑弥呼。
伊都国:最大のクニであり、その国王が倭国王である。紀元57年に中国より授けられた金印は、最恵国待遇のものであり、「漢の委(ワ)の奴(ナ)国王」と云う3段読みはありえず「漢の委奴(イド)の王」としか読めない。委奴は匈奴と同じ従順な部族のこと。そしてその首都が平原遺跡で、国内最大級(径46cm)銅鏡が3枚出土している。
:死後大いなる冢(チョウ)を作るとあるのは、当時の径百歩は22mに相当する。
邪馬台国:上記平原遺跡に近い所で倭人伝記載の「鏡・勾玉・刀」の3種の神器が出た吉武高木・須玖岡本などで、唯一中国の絹がでたのは須玖岡本の王墓のみ
等から、須玖岡本こそ邪馬台国王墓かと思えるが、「親魏倭王」印の出土が無いので、卑弥呼の墓とは言えず、この近くに必ず卑弥呼は眠っているとするものである。
 

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2013年12月20日 (金)

争乱の戦国史83(室町Ⅳ23): 信長と道三の同盟、尾張統一へ

 信長が13歳で元服の頃、隣国・美濃の斎藤道三は尾張に食指を伸ばし、信長父・信秀と度々戦闘を繰り返していた。1547年(天文16)信秀は美濃に侵攻、多数の犠牲を出して撤退し、道三との和睦を探る。翌年(天文17)信秀は道三の娘・濃姫を信長の正室に迎えることで、美濃との争いに終止符を打つ。この政略結婚から3年後の1551年に信秀は病に倒れる。家督は信長に譲られた。
F83 1553年4月(天文22)、斎藤道三は織田信長に会見を申し入れた。娘を嫁がせ和睦したが、信長が同盟するに相応しい人物かどうか確かめるためだった。信長は会見場・尾張富田の正徳寺に鉄砲5百挺、長槍5百本を携えた兵を引連れて臨んだ。鉄砲伝来ごわずか10年で、既に信長は大量の鉄砲を調達していた。これを見て道三は、信長の先見性と独創性を見抜いた。これで同盟は強化した。
 この同盟強化は、道三には尾張が駿河・遠江・三河を支配する強大な今川義元の脅威から美濃を守るための楯であった。そして、信長にも、信秀の死に動揺した国人の今川への寝返りが相次ぐ中、道三の後ろ盾により、浮足立つ国内勢力を牽制し、態勢立て直しの必要があった。

 1554年7月(天文23)、尾張下半国の守護代・清州城主の織田信友とその家臣・坂井大善が、尾張守護職・斯波義統(ヨシムネ)を暗殺する事件が起きた。この時狩に出ていた義統の子・義銀は那古野城に逃げ込んで、信長の保護を受けた。信長は義銀を擁して清洲城を攻撃した。
 これに対し、信友は、叔父にあたる守山城主・織田信光に援軍を依頼。勝利すれば、信光を守護代に推挙するという。この条件を受けた信光は清州城に入るが、信友を裏切って切腹に追いやり、信長を清州城に引入れた。事件後、信長は清州城を信光に与えたが、1555年(弘治元)信光は家臣に殺害された。
 信長はわずか1年ほどで尾張下半国の拠点・清州城・那古屋城・守山城を掌握。この時、信長22歳。尾張統一へ向け、戦国大名として、大きな一歩を踏み出したのである。

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争乱の戦国史83(室町Ⅳ23):

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2013年12月19日 (木)

橘擬きとは似て非なるトキワサンザシ

 

11月9日付けのこのブログで「タチバナモドキ」を紹介し、その中で別名、学名からピラカンサ、或は属名からトキワサンザシとも云う、と紹介した。ところが、タチバナモドキとトキワサンザシは別物だとはっきり書いているページがあり、両者とも同じトキワサンザシ属(或いはピラカンサ属)ではあるが別種であると理解したので、今回はたわわに実をつけた今盛りのトキワサンザシを掲載した。先ず両者の違いを略記しておこう。
 トキワサンザシヨーロッパ南部~西アジア原産。開花・結実等はほぼ同時期だが、がやや大きく先端が丸い。又赤色。単にピラカンサと言えばこれを指す。
 タチバナモドキ別名ホソバトキワサンザシと云い、中国原産はやや小さく先が尖っている。又の色は橙色である。で、タチバナモドキは掲載済みなので、今日はトキワサンザシを紹介する。
Photo トキワサンザシ(常盤山査子)。明治中期に渡来。タチバナモドキより枝が密でないので、生垣には向かず、庭木に植栽される。高さ6mになる。短枝は棘状になる。葉は互生し、葉身は倒披針形で、先は丸い。縁に細かい鋸歯があり、両面とも無毛。
Photo_2 花と。花は白色で径1cm位の5弁花を多数つける。当然果実も沢山付いて、写真の通り、鮮やかな紅色に熟して美しい。先端には蕚が残る。食べると味はリンゴに似ている由。
 

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2013年12月18日 (水)

争乱の戦国史82(室町Ⅳ22): 九州諸勢力が拮抗、戦国大名へ

 越後の阿賀北衆と同様、九州・島津氏、大友氏でも、領国統一に際し、本拠地内の有力領主・国衆の併合と一族庶子家の服属・家臣化が並行して進んだ
 島津氏の場合、本宗家勝久、伊作・相州家貴久、薩州家実久の三者鼎立から貴久が勝ち抜き1550年(天文19)には本宗家の根拠地鹿児島に入り、1552年、従五位下に叙せられ、守護の立場を確立した。その12月、貴久は伊集院・樺山・喜入・本郷など一族諸氏と盟約を結んだが、明らかに貴久の家臣化の傾向を深めた。この間貴久は大隅の攻略を進めたが、国人肝付は薩摩入来院・東郷・菱刈名の自立領主らと貴久に対抗した。
 同じ頃、肥後・球磨郡を統一した相良氏が芦北・八代へ進出を図り、日向では伊東氏が飫肥地方を島津氏から奪還、日南に勢力を伸ばした。これらと結んだ肝付だったが、1574年(天正2)に島津氏に服属、大隅が島津氏に統一された。
F82_2 一方、大友氏は配下に多くの一族諸氏、或は宇佐郡衆、玖珠郡衆など独立性の軍団を抱えていた。しかも、北部九州では大内氏との対立に、名族少弐氏、その家臣・龍造寺氏絡む状況下で、中小領主が離合集散を繰り返していた。1536年(天文5)、大内義隆が、少弐氏は攻められ当主が自害する。豊前を巡る大友・大内の対決は、伝統的名族でもあり、将軍権威もある程度受け入れ、将軍義晴による和睦が勧められた。

 肥後方面では、かっての守護・菊池氏に大友義鑑の弟・重治が養子に入り、大友氏が支配力を伸ばした。1543年(天文12)義鑑が肥後守護に補任され、大友氏は豊後・筑後と共に3ヶ国の守護職を確保した。1550年(天文19)、義鑑が廃嫡しようとした嫡子・義鎮に逆に殺され、大友宗麟(義鎮)が家督を継ぐ。
 尚、大内氏の場合は翌年、陶晴賢の乱を生じさせ、滅亡への歩みを加速した。大内氏の退潮は大友氏を活気づけ、義鎮は1554年(天文23)には肥後守護と成り、1559年(永禄2)には豊前・筑前守護を加えられ九州6ヶ国の守護と、日向・伊予各半国を手にした。

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2013年12月16日 (月)

葉牡丹の出番

 花屋さんの前を歩いていたら、入荷したばかりの葉牡丹を、店員さんが一生懸命陳列していた。これからクリスマス、正月を迎えての出番。ふと目をやると、今まで知らなかった種類のものも交え、多品種あるのに驚いた。その中の代表3種を紹介。
Photo 葉ボタンは葉緑体以外の色素を持たないものと、アントシアンという色素を持って、いろんな色になるものとあるそうだ。色づくのは一定以下の低温に晒されてから出葉すると葉緑素が抜けて、白からクリーム色、或は紫、赤、桃色等に色づくそうだ。従って初めは寒風下での鉢や花壇での栽培が必要との事。 
Photo_2 故に、暖地では育たず、寒地では越冬できない。 葉ボタンがキャベツやケールから作出されたのは江戸中期以降。当時から縁起の良い紅・白が好まれた由。明治以降、冬の園芸植物として広く海外へ広まって行き、現代では世界各地で栽培されているとのこと。
Photo_3 写真「丸葉」という品種。東京丸葉は江戸時代からの直系。写真「ちぢれ」。縮緬性のケールの交配で作出、大きな縮れの名古屋縮緬が鉢植え向きとか。写真「きれは」とあったが、1980年代から作出された縮れて深い切込みの出来る「クジャク、サンゴ、カンザシ」などと名付けられた品種の一つのようだ。

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2013年12月14日 (土)

争乱の戦国史81(室町Ⅳ21): 織田信長の登場

 1405-1409年(応永12-16)の頃、織田家は越前・尾張守護で管領である斯波家の尾張守護代を務めていた。ところが、応仁の乱の頃、1466年7月(文正元)、主家斯波氏の子・義廉、義敏が義兄弟同士の家督争いを起すと、その混乱の中で、守護代の織田家の兄弟も二家に分かれて対立した。
 弟・敏定1478年(文明10)に尾張清州に築城し移ったが、兄・敏弘が早世し、後継・千代夜叉丸が幼少ゆえ、益々敏定の勢力が強大となり、宗家を凌いだ。天文年間(1531-1554)まで、両家の対立は解けず、織田大和守(敏定の後裔)は清州に在って尾張下四郡を、織田伊勢守(敏広後裔)は上四郡を領した。
F81 この尾張下四郡の清州織田に仕えた家臣には、織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠の政務を担当した三奉行がいたが、この内の織田弾正は人物が傑出しており、遂に主の大和守を圧倒した。これが信長の父・信秀である。
 この頃、隣国三河の松平清康、駿河の今川義元、美濃の斎藤道三などがその台頭期にあり、共に尾張をうかがった。しかし、信秀は国人(有力豪族)や地侍といった実力者に接近し自分の味方に入れ、彼らを率いて美濃や三河の国境を侵犯し、やがて織田家きっての武将として内外に知られるようになる。(図は「図解戦国史」(成美堂出版)より)

 織田信長はこのように着々と実力を付けつつあった25歳信秀の子として、1534年5月(天文3)勝幡城で産声を上げた。
 信長(幼名・吉法師)は幼少の頃から、学問には全く興味を示さず、目下の者を引き連れて異様な風体で町中を練り歩くなど奇行が目立ち、周囲からは「大うつけ」と呼ばれるなど、傅役の重臣・平手政秀が手を焼いた
 しかし、信秀は信長の型破りな性格を愛し、戦国を生き抜く逸材と見ていた。弟・信行は品行方正で家臣からの評判も高かったが、信秀は一貫して信長を嫡子と定め、13歳で元服の折には自分の「三郎」を与え、織田三郎信長と名乗らせたのである。

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2013年12月13日 (金)

弱者救済出来るのか 軽減税率

 自民、公明党の税制大綱が決定した。昨年6月、民主、自民、公明の3党での「低所得者に配慮する」と明記した合意文書は置き去りにしたまま、消費税の軽減税率の導入時期を曖昧にして決着した。税率10%で軽減税率が導入されなければ、食料品の税率は欧州諸国より高くなる。
 そもそも、消費税の増額は、超高齢化に見合う社会保障サービスを定め、財政健全化に目配りし、財源確保を目指す「社会保障と税の一体改革」であった筈である。ところが、自民党政権になった現段階では、この3党合意が曖昧になって来た。財源確保のため低所得者対策が置き去りにされそうだという。本来社会保障のための増税であった筈が、歪められようとしているこの現実を国民は看過してはならない。
 そんな厳しい社会環境の中で、寒さにめげず、冬の花が咲いている。
Photo サザンカ(山茶花)。元は文字通りさんざかだった。冬の代表花で、薄い赤が自生種。、この紅い花は園芸種。日本では山口、四国以南に分布。熱帯、亜熱帯に自生し、日本が北限という。 山茶花にはチャドクガの幼虫が付きやすく、毒針毛に触れると皮膚炎となる。童謡「たきび」の通りなじみ深い花なのだ。
Photo_2 同上。椿に似るが、違いは散るとき、椿が花ごと落ちるに対し、山茶花は花弁が一枚ずつ散る。山茶花が暮れから咲き始め3月頃まで咲くに対し、椿は2月頃から咲き始める。花弁が山茶花は開くが椿は大きくは開かない。又、椿の方が蕊が長い。

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2013年12月12日 (木)

戦国史80(室町Ⅳ20): 上杉謙信 越後統一

 越後は代々上杉一族が守護であったが、1507年(永正4)守護代の長尾為景が越後守護・上杉房能(フサヨシ)に反乱しこれを殺めて、その養子・上杉定実(サダザネ)を守護の座に就け、これを操って実質的に越後を手中に収めた。
 しかし、1436年12月(天文5)、為景も病気引退・死亡すると、嫡男晴景は「内乱平定」の綸旨(リンジ)(天皇の意思伝達文書)を拝領。直ちに、父が押込めていた上杉定実を再び守護の座に据えるという政治的無定見振りをさらけ出すなど、晴景の力量不足から混乱が生じた。そこで守護上杉定実の仲立ちによって、兄晴景と対立した弟の景虎(若干19歳)が晴景の養子になるという形で、1548年12月(天文17)に景虎(のち謙信)が守護代を継ぎ、長尾家当主として春日山城に入り、越後の実権を掌握した。 
F80 当時の越後は府内長尾氏を中軸にして、上田長尾、古志長尾、三条長尾が連携すれば、細長い越後国に太い筋金が入る。景虎は、古志、三条を栃尾時代に掌握しており、残すところは上田長尾だけであった。
 上田長尾は関東との関門を扼(エキ)し、中部の上条上杉と結託したり、関東勢を引入れるなど、府内長尾の行動を制約してきた。しかし、上田長尾を押さえれば越後統一の枢軸が完成し、関東街道の幹線確保もできる。
 かくて、関東管領が越後へ攻め込んできた道を逆に越後から関東へ攻め下るようになり、更には信州中島へ転戦する幹線道路ができた。こうして、景虎は越後統一を図って、関東経略に乗り出すようになり、戦国大名として歩み始めた。この時、1552年(天文21)景虎23歳の時だった。

 天才的軍略家と云われた景虎は、北条家によって関東を追われて越後へ亡命した上杉憲政を伴って、1561年(永禄4)関東に攻め入り、一時は小田原城を包囲して窮地に追い込んだ。この帰途、鶴岡八幡宮で憲政から上杉の名跡関東管領の職を受け、名を上杉政虎(のち謙信)と改めた。

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2013年12月11日 (水)

TTP交渉年内妥結を延期

 日本が求める農産物の関税維持は、日米協議でも譲歩を引き出せなかった。元々関税全廃を目指すTTP故、難しい交渉なのだ。その難しさを承知で交渉参加した日本はその落としどころをどう考えているのか。日本農業を今後どうするのかと言う基本政策が不透明なままで、従来の交付金等の保護政策の転換を図ろうとしている政府は、TTPを一つのテコにしようとしているのでないか。原発政策にしろ、現政府の”強引な”やり方で国民感情を度外視した政策がどんどん進められそうで心配だ。
 寒空の下不安定な日本丸の舵取りなど無関係に水仙が咲きだした。
Photo スイセン(水仙)。別名雪中花。雪の中で咲く故か。又はナルシサス(学名より)ともいう。日本には古くに中国経由で渡来。本州以南の暖かい所では海岸で野生化している。これは一茎に房咲きする日本水仙と言われる品種。花期は12月ー2月に咲く。全草毒成分があり根の鱗茎は食べると死ぬ。
Photo_2 その花。蕾を付けた花茎が伸びきると横向きになり、苞を破って花が咲く雌しべが一本雄しべが六本ある。花弁は6枚あるように見えるが外側3枚は萼で、内側3枚が花弁(併せて花被片という)。又中心に黄色の筒状の花弁副花冠という)があり、この花弁の付き方で品種が区別されるそうだ。

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2013年12月10日 (火)

争乱の戦国史79(室町Ⅳ19): 伊達氏 戦国大名へ

 1537-38年(天文6-7)、越後では守護復帰の上杉定美には跡継ぎが無く、伊達氏に嫁いだ女子の血筋にあたる子息、即ち伊達稙宗(タネムネ)の子・実元(サネモト)を養子に迎える話が浮上した。ところが上杉家の阿賀北衆の中でも、伊達氏の懇意の中条氏は稙宗の意向を受け積極的だったが、慎重派の他の北衆との間で紛争が生じ、遂に伊達氏が阿賀地方に出兵する騒ぎとなったのである。
F79 ところが、実元が軍団を率いて越後に行くのは伊達氏本国の支配を動揺させるとして、稙宗嫡子・晴宗がこれに反対し、1542年(天文11)父・稙宗を捕え幽閉してしまった。この親子相克が天文の乱と呼ばれる南奥州諸大名を巻き込んだ争乱へと発展した。稙宗方は相馬・田村・葦名・二階堂・懸田各氏や実子の大崎義信・葛西晴胤がつき、晴宗方には伊達氏家臣の多くや岳父・岩城重隆・留守氏が味方した。他氏との広範な縁組が、逆に争乱の拡大を誘った。
 晴宗方についた伊達家家臣には稙宗時代急速に進んだ棟役(家の賦課)、段銭(田地の賦課)の徴収強化体制即ち戦国大名化への反発が強かったと云われる。

 この乱で勝利した晴宗家督を相続し、稙宗は隠居させ、1548年(天文17)居城を西山城から米沢城に移した。そして、従来の安堵状を破棄して、家臣団全員の所領に対して新たに晴宗の安堵状を一斉に下した。その上で、新しく時代に対応した軍役台帳を作成した。これは家臣団の知行地を完全に掌握し、家臣団編成と序列を整備して、権力基盤の安定化に成功して、戦国大名へと飛躍したのである。
 その後、乱後に権力を強めた中野氏の扱いに関し、子・輝元と対立を深め、1564年(永禄7)杉目城(福島城)に隠居し、子・輝元に家督を譲るが、生涯を通して、岩城、国分、二階堂、佐竹各家に自分の子の養子縁組や入嫁させて、伊達家の戦国大名としての地位を不動のものにした

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2013年12月 9日 (月)

紅葉の季節をすっ飛ばして冬?

 当地福岡ではなかなか樹々が紅葉せず、その内急激な寒さのため、紅葉も銀杏も2、3日色づいたら枯葉の如く散ってしまった。所謂紅葉の季節が無かった。その無残な紅葉を紹介。
Photo モミジ(紅葉)。このモミジは紅葉して赤くなったものではなく、元々紅いモミジが未だ葉が枯れずいたので、撮ってきたもの。周りは常緑樹の樹ばかりで殺風景なもの。
Photo_2 モミジ葉どんな紅葉でも、こうして下から空を透かして撮ると間違いなく美しく見える。しかし、考えてみると、万葉歌人や俳人はこの葉が散って、流れに浮かぶ様を詠った歌が多いから、粋人は散る葉こそ愛でたものか。
 Photo_3
 下イチョウの落葉。毎年綺麗な銀杏並木を見せてくれる通りなのだが、行って見ると既に大方は散ってしまい、ご覧のような銀杏の絨毯を作っていた。

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2013年12月 8日 (日)

争乱の戦国史78(室町Ⅳ18): キリスト教の伝来

 16世紀中頃、カトリックの伝道を目的としたイエズス会は、インドのゴアを拠点にアジヤで布教活動を行っていた。1549年(天文18)、イエズス会の宣教師フランシス・ザビエルにより、日本にキリスト教が伝えられた
 ザビエルは、殺人罪を犯して国外に脱出し、マラッカに住んでいた薩摩武士・アンジロー(ヤジロウともいう)に巡り合ったのが縁で、日本という国を知り、カトリック布教の目的で来日した。
F78_2 鹿児島に上陸すると大変な歓迎を受けた。領主・島津貴久はポルトガル貿易の利益を知っており、ザビエルの布教活動をあっさり承認した。最初は誇り高い日本人の性質に触れ彼は感動したが、次第に現実が判ってくる。貿易の方便としてキリスト教を許可した事、特に日本の大名たちが欲したのは鉄砲であり、火薬だった。
 1年間鹿児島に滞在し布教を行って、その後平戸・博多・山口と島津氏、松浦氏、大内氏その他大名の布教許可を貰いながら布教活動を行い京都へ向かった。天皇に謁見し、布教許可を得ようとしたが、戦乱で京は荒れ果てており、各地に割拠する戦国大名の許可を受けて布教する外ないことを知る。結局、大内義隆にインド総督の親書と進物を贈り、豊後へ赴く。豊後では大友宗麟がキリスト教に深い理解を示し、来日の最大の成果を得たが、1551年9月(天文20)、大内が陶晴賢に滅ぼされたこともあり、日本を去りインドへ戻った。(図解戦国史(成美堂出版)より)

 その後もあとを継ぐ宣教師たちが来日し、1560年(永禄3)には将軍・足利義輝から京都での布教を認められた。尤も逆に天皇は禁教の綸旨を出しており、キリスト教が畿内で広まるのは織田信長の時代になってからである。
 最盛期には信者も30万人いたとされ、キリスト教の普及に伴い、ポルトガル船の入港もひんぱんになり南蛮貿易も活発化した。又、西国や畿内を中心に洗礼を受けたキリシタン大名も誕生する。

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2013年12月 6日 (金)

渡り鳥「真鴨」が飛来

 博多湾には、渡り鳥の飛来地として世界的にもよく知られた「和白干潟」がある。ここには珍しい鳥が冬になると飛来するが、特に珍しくもない野鳥も沢山飛来する。それらの内、干潟に近い多々良川河口にもよく現れ、時には河口より上流の方へも飛んでくるのも居る
 この季節では先ず第一陣の鴨(真鴨)やクロサギなども上流までくる。それで観に行ってきた。生憎曇天で。風も吹いていたせいか、居たのはマガモの群れだけであったが、彼らはカメラを向けると直ぐ対岸の方へ移動してしまうので、なかなかうまく撮れなかったが、とりあえず今日は真鴨を載せよう
Photo マガモ(真鴨)。冬鳥として、北海道から南西諸島まで、全国的に飛来する。北海道と本州中部の山地では冬季に少数ながら繁殖する。鴨は越冬中の10月末から12月につがいを形成し、春には繁殖地に向かう由。植物が主の雑食性だが、潜れないので、水中に首を突っ込んで餌をとる。
 Photo_2
 マガモの雄。この様に、オス青緑色の頭(写真は黒く写った)、灰白と黒褐色の胴体と鮮やかな体色。対してメスは上部写真の様にほぼ全身が黒褐色の地に黄褐色の縁取りのある羽毛に覆われている。(上部写真にはオスとメスの2種が泳いでいる)。

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2013年12月 5日 (木)

争乱の戦国史77(室町Ⅳ17): 鉄砲の伝来

 従来、鉄砲伝来は種子島家編纂の「鉄炮記」による説が流布していたが、その後の研究により、若干記述の違いが修正されたので、それを採る。
 1542年(天文11)、倭寇の首領・王直(オウチョク)の船に乗ってポルトガル人がシャム(タイ)から種子島に来て鉄砲を伝え、翌1543年8月(天文12)にも彼等は再び王直の船で来島した。その時、当時の主宰・西村織部丞は相手が交易を望んでいる事を知り、領主・種子島時尭(トキタカ)に通報した。時尭はこの船を屋敷のある赤尾木に曳航させ、ポルトガル人が携えていた鉄砲に興味を持ち、2丁の鉄砲を購入した。その時、使用法や火薬の調合法など、鉄砲に関する種々の技術が伝えられたという。
F77 時尭は島の鋳物師(刀鍛冶)の八板金兵衛に命じて鉄砲を複製させた。王直は1545年(天文14)にも種子島を訪れて、博多商人などポルトガルとの密貿易の場島嶼に導いたというから、この時鉄砲製造上の技術も伝わったと思われる。
 2丁の内、1丁は種子島に来ていた紀州・根来寺の縁者に懇望され譲渡したのが、根来寺の杉坊明算に渡り、忽ち根来は鉄砲生産地となった。また、堺商人・橘屋又三郎が訪れ約1年間、八板金兵衛のもとで製作法を学んで帰った。
 更に、種子島時尭から薩摩の島津義久に贈られた鉄砲が、将軍・義晴に献上され、それにより近江・国友村でも試作された。結果、堺、根来、国友が鉄砲の3大生産地となり、その後、西国の戦国大名を中心に徐々に広がった。

 この鉄砲に対し、初めて軍事的意義を見出したのは織田信長であったと言われる。信長は1549年7月(天文18)、国友鉄砲鍛冶にに対して、鉄砲500丁を発注し、国友鍛冶は翌年10月納品したと言われる。種子島伝来から6年目のことである。信長が天下を制す端緒となった長篠合戦で、織田・徳川連合軍は約1000丁の鉄砲を揃え、我が国初めての鉄砲での合戦で勝利した。信長の慧眼が、戦国時代の戦法を大きく変えたと言えるであろう。

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2013年12月 4日 (水)

慌ただしさ増す師走

 秘密保護法6日採決と意気込む政府、審議不十分と成立阻止を狙う野党との駆け引きが今夜も続いている。その間を縫って米副大統領が中国の防空識別圏設定を巡って来日、今日は中国に行き会談中。と、世の中慌しい限りだが小生も慌しい
 つい、先月まで、暑い暑いと言ってやらねばならぬ庭木の手入れを先延ばしにし、枝が伸び放題。そろそろ取り掛からねばと思った途端、急に真冬並みの寒気が到来。その上天候はぐずつき気味。何も手つかずのまま、今週末はもう”大寒”だという。
 もう猶予出来ないと鉢巻きを締めた途端、○○納めなる遊び行事が続く‥‥。と、今年だけのようなこと言うが、毎年同じような事を言って来たものだと反省と諦めの状態である。
 その寒さの中で赤さを増してきた万両の実が目を引く頃となった。
Photo マンリョウ(万両)。別称ヤブタチバナ正月用の縁起木だ。関東以南に分布しているが、江戸時代より園芸種が栽培された。大きくなれば、1m位になる。半日陰の湿潤の環境を好む。他に千両(別称クササンゴ)、百両(カラタチバナの別称)、十両(ヤブコウジの別称)、一両(アリドウシの別称)と名付けられた赤い実をつける木がある。
Photo_2 マンリョウの実。園芸種ではの他、(シロミノマンリョウ)、(キミノマンリョウ)がある。千両と万両の違いは、万両葉の下にがあるのに対し、千両葉の上にがある。又、千両は対生なのに対し、万両は互生につく。

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2013年12月 3日 (火)

争乱の戦国史76(室町Ⅳ16): 北条氏、河越夜戦で勢力拡大

 北条家初代・早雲は伊豆、相模を制圧し、2代目・氏綱は武蔵、下総に手を伸ばした。1541年(天文10)に家督を継いだ3代目・氏康は山内上杉や扇谷上杉などの関東旧勢力を圧倒し、武蔵全土平定する勢いにあった。
 1545年(天文14)上杉(山内)憲政は、北条氏康打倒のため、抗争を繰り返した上杉(扇谷)朝定と和睦し、北条方に奪われていた越城の奪還に向け動き出した。すると、北条支持だった古河公方・足利晴氏が反北条に寝返った。つれて北条方であった関東の中小勢力も反北条連合に加担した事から、8万もの軍勢に膨れ上がって、北条氏の武蔵における拠点だった河越城に押し寄せた。
F76jpg 北条氏康は急ぎ出陣し、救援に向かったものの城内の兵と救援併せて、1万程度であり、到底勝ち目がなかった。又、甲斐の武田信玄や駿河の今川義元も反北条連合を支援し、北条氏は戦国大名となって以来の危機を迎えた。数か月膠着状態が続いたのち、氏康は連合軍が油断したころ、まず信玄と休戦協定を結び、その仲介で義元と交渉信玄は信濃国内での勢力圏を拡大しているため、後方の安全確保のため、北条氏との和解を選択した。そして、今川氏とは東駿河の今川領を占拠していたのを返還する条件で今川氏とも和睦した。(図は成美堂出版「図解戦国史」より)
 そして氏康は
1546年4月(天文15)、夜半に河越城を包囲中の連合軍に奇襲攻撃をかけた。完全に油断し寝静まっていた連合軍の陣地は大混乱に陥り、乱戦の最中上杉朝定は討ち取られ扇谷上杉氏は滅亡した。これを越夜戦という。

 河越夜戦に敗れた関東の旧勢力は急速に衰退して行く。当主を失った扇谷上杉は断絶。山内上杉氏1552年(天文21)に居城を攻め落とされて、上野を追われ、当主・上杉憲政は越後へ脱出。越後守護代長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。古河公方の足利晴氏は降伏し、北条家の血を引く義氏に家督を譲って隠居するよう強制された。こうして、北条家の関東支配は一層進んで行くのである。
 一方、長尾景虎は、1561年(永禄4)越後に亡命していた上杉憲政を伴って、小田原城に北条氏を攻め、その帰途景虎は憲政から上杉の名跡と関東管領の職を譲り受ける

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2013年12月 2日 (月)

怖い話

 このところ、怖い話が続く。一つ目特定秘密保護法案。国民に重大な影響を及ぼす事案であっても、官僚がこれを重要秘密として「囲い込んで」仕舞うと、国民はおろか、担当大臣さえ知らされないこともあり得るという。二つ目、中国が設定した防空識別圏。韓国は認めないとしており、日本は勿論認めないと云ってたはずが、米国が航空各社に飛行計画提出を認めた途端、日米で緊密に連携するといい、民間航空が『したい』と言うのを「いけない」と言えないといい出した。三つ目、昨年12月の笹子トンネルの天井板墜落事故に対し、このほどようやく、1年ぶりに土木学会が「吊り下げを原則禁止」する方針を出してきた。現状を容認せざるを得ない故即禁止は無理なことは判るが、原則禁止位はすぐ出せた筈。いやー、世の中、怖い事ばかりだ
 師走に入って急に寒くなったが、流石にキクは元気に咲いている。その中スプレー菊を紹介。
Photo スプレー菊(Spray mum)。耳慣れないが洋花とも相性がよく、最近人気の菊。上部が数多く分枝して、逆円錐形状に花を付けスプレーしたような、或はSprayが小枝の意味があり、スプレーと称すという。1940年米国で園芸種が産出され、日本には1974年に渡来。花の形や色など沢山種類がある。
Photo_2 接写の:菊は基本的には赤、白、黄3色だが、この菊は色目が豊富で、写真の様に2色以上の複色があり、花形も各種ある。中には葉を見て初めて菊と判るようなものもあるらしい。スプレーギクは秋咲種が主であり、10月以降に咲くのが多い由。

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