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2013年12月26日 (木)

争乱の戦国史85(室町Ⅳ25): 関東の覇権争いと越相同盟

 相甲駿の三国同盟も夫々の置かれた立場の相違で、綻びが出始める。
 1554年(天文23)、北条氏では氏康が前古河公方の足利晴氏とその子・藤氏を攻めた。これは、甥で古河公方家の家督を継いだ義氏(母が北条氏綱の娘)を戴く、北条氏を中心とした関東の体制つくりを進めて行くためである。
F85 これ以降、北条氏に対立する関東の勢力は、越後の上杉謙信と結びつくようになり上記足利藤氏や北関東の勢力は、反北条派の佐竹・小田・宇都宮・小山(オヤマ)各氏も謙信と通じて行く。(北条氏康画像・法雲寺蔵)
 一方、下総結城の結城氏は、北条氏と足利義氏に属し、「結城氏親法度」なる分国法を制定するなど、家臣団・領内支配を強化し、佐竹氏らと厳しく対立した。1561年(永禄4)の上杉氏中心の反北条派の小田原城包囲網は、このようにして形成され、北条氏にとっては大きな脅威であった。

 しかし、これを籠城戦で切り抜けた北条氏は、1564年には安房・里見氏、武蔵岩槻(埼玉・岩槻市)・大田氏を下総国府台(コウノダイ)(現市川市内)で破り、江戸地域をほぼ完全に掌握して、更に北関東進出の基礎固めを成した。
 1561年(永禄4)以来、1567年(永禄10)までの間に、謙信関東で正月を迎えるのは5回にも及んだのである。ところが、謙信が関東を去ると、氏康が関東に進出して諸城を制圧した。しかし、このシーソーゲームも本拠の近い氏康方の勝利となって終わる。そして謙信はその7年間夏と秋は越後と信濃で信玄と戦い、冬と春は関東で戦って、何も得るところなく敗退せざるを得なかった。それは謙信が関東管領として関東征討ではなく、鎮定を責務とした故でないか。

 その後、武田氏からの同盟破約によって、北条氏は上野国を譲ってでも謙信と講和を結ぶ必要が生じ、1569年(永禄12)越相同盟が合意される。ところが、2年後にはこれを北条氏から破棄し、再び信玄と結んでいる。翌年謙信が信長と同盟するのはこの様な状況が背後にあった。そして今川氏が脱落してからは、残る3者の覇権争いにと進展して行く。

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