« 「卑弥呼は福岡市付近にいた」を読む | トップページ | 今頃珍しい風船唐綿 »

2013年12月23日 (月)

争乱の戦国史84(室町Ⅳ24): 甲相駿の三国同盟

 1540年代、甲斐、越後、相模、駿河は激しい闘争劇を繰り広げていた。
 甲斐・駿河両国間では、明応年間以来(1490年来)侵攻と和睦を繰り返したが、駿河は1536年(天文5)、今川氏輝の急死で、弟二人の家督争いに家臣団を二分した戦い(花蔵の乱)では、北条氏綱の援助で義元が勝利。家督を継いだ義元は翌年、今までの反武田の姿勢を転換し、甲斐の武田晴信の姉を室に迎え、従来の同盟・北条氏と断交。此処に武田・今川両氏の同盟関係が成立した

 一方信濃侵攻を続ける武田氏は、1548年(天文17)一度は村上義清に大敗したが、同7月村上・小笠原連合軍を破り、さらに本格的に信濃侵攻を続ける上で、背後の駿河・相模方面の安全が必須条件となった。
 ところが、義元に嫁いでいた姉が早世し、甲駿同盟の要を失った。そこで、晴信は1552年(天文21)義元・娘を嫡男・義信の室に迎えることにし、更に北条氏との講和も進め娘を北条氏康の嫡男の室に入れる約をした。こうした背景固めの上、信濃に侵攻し1553年(天文22)には村上・小笠原を越後に敗走させた。
 
F84_2 この武田氏の相模・駿河両面講和と連動したのが、北条・今川同盟だった。先の義元の政策転換は北条氏綱の駿河への出兵を誘い、以降富士川以東の領有をめぐり、北条氏と武田氏の間で、河東一乱の合戦が2度起こった。しかし、1545年(天文14)、北条方に反攻を加え、一先ず鎮静化させた今川氏は東三河への侵攻を開始した。一方の北条氏も関東制圧を本格化させていたので、北条・今川の同盟締結が両者戦略に合致したのである。
 1554年7月(天文23)、北条氏康の娘が今川氏真に嫁ぎ、武田晴信の娘は12月、北条氏に嫁いで三国同盟がなった。
 この三国同盟は、義元の参謀太原雪斎の画策だったとされるが、今川家にとっては西に向けての勢力拡大の画策があり、西進のためには武田家と北条家の警戒不要の状況が必須だった。また、武田家と北条家にとっては夫々信濃の安定化と関東の反北条勢力の打倒のため必須であり、且つ両家に脅威の越後・上杉謙信への備えが必要だったわけである。

|

« 「卑弥呼は福岡市付近にいた」を読む | トップページ | 今頃珍しい風船唐綿 »

戦国時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/58805035

この記事へのトラックバック一覧です: 争乱の戦国史84(室町Ⅳ24): 甲相駿の三国同盟:

« 「卑弥呼は福岡市付近にいた」を読む | トップページ | 今頃珍しい風船唐綿 »