« 葉牡丹の出番 | トップページ | 橘擬きとは似て非なるトキワサンザシ »

2013年12月18日 (水)

争乱の戦国史82(室町Ⅳ22): 九州諸勢力が拮抗、戦国大名へ

 越後の阿賀北衆と同様、九州・島津氏、大友氏でも、領国統一に際し、本拠地内の有力領主・国衆の併合と一族庶子家の服属・家臣化が並行して進んだ
 島津氏の場合、本宗家勝久、伊作・相州家貴久、薩州家実久の三者鼎立から貴久が勝ち抜き1550年(天文19)には本宗家の根拠地鹿児島に入り、1552年、従五位下に叙せられ、守護の立場を確立した。その12月、貴久は伊集院・樺山・喜入・本郷など一族諸氏と盟約を結んだが、明らかに貴久の家臣化の傾向を深めた。この間貴久は大隅の攻略を進めたが、国人肝付は薩摩入来院・東郷・菱刈名の自立領主らと貴久に対抗した。
 同じ頃、肥後・球磨郡を統一した相良氏が芦北・八代へ進出を図り、日向では伊東氏が飫肥地方を島津氏から奪還、日南に勢力を伸ばした。これらと結んだ肝付だったが、1574年(天正2)に島津氏に服属、大隅が島津氏に統一された。
F82_2 一方、大友氏は配下に多くの一族諸氏、或は宇佐郡衆、玖珠郡衆など独立性の軍団を抱えていた。しかも、北部九州では大内氏との対立に、名族少弐氏、その家臣・龍造寺氏絡む状況下で、中小領主が離合集散を繰り返していた。1536年(天文5)、大内義隆が、少弐氏は攻められ当主が自害する。豊前を巡る大友・大内の対決は、伝統的名族でもあり、将軍権威もある程度受け入れ、将軍義晴による和睦が勧められた。

 肥後方面では、かっての守護・菊池氏に大友義鑑の弟・重治が養子に入り、大友氏が支配力を伸ばした。1543年(天文12)義鑑が肥後守護に補任され、大友氏は豊後・筑後と共に3ヶ国の守護職を確保した。1550年(天文19)、義鑑が廃嫡しようとした嫡子・義鎮に逆に殺され、大友宗麟(義鎮)が家督を継ぐ。
 尚、大内氏の場合は翌年、陶晴賢の乱を生じさせ、滅亡への歩みを加速した。大内氏の退潮は大友氏を活気づけ、義鎮は1554年(天文23)には肥後守護と成り、1559年(永禄2)には豊前・筑前守護を加えられ九州6ヶ国の守護と、日向・伊予各半国を手にした。

|

« 葉牡丹の出番 | トップページ | 橘擬きとは似て非なるトキワサンザシ »

戦国時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/58778005

この記事へのトラックバック一覧です: 争乱の戦国史82(室町Ⅳ22): 九州諸勢力が拮抗、戦国大名へ:

« 葉牡丹の出番 | トップページ | 橘擬きとは似て非なるトキワサンザシ »