« 弱者救済出来るのか 軽減税率 | トップページ | 葉牡丹の出番 »

2013年12月14日 (土)

争乱の戦国史81(室町Ⅳ21): 織田信長の登場

 1405-1409年(応永12-16)の頃、織田家は越前・尾張守護で管領である斯波家の尾張守護代を務めていた。ところが、応仁の乱の頃、1466年7月(文正元)、主家斯波氏の子・義廉、義敏が義兄弟同士の家督争いを起すと、その混乱の中で、守護代の織田家の兄弟も二家に分かれて対立した。
 弟・敏定1478年(文明10)に尾張清州に築城し移ったが、兄・敏弘が早世し、後継・千代夜叉丸が幼少ゆえ、益々敏定の勢力が強大となり、宗家を凌いだ。天文年間(1531-1554)まで、両家の対立は解けず、織田大和守(敏定の後裔)は清州に在って尾張下四郡を、織田伊勢守(敏広後裔)は上四郡を領した。
F81 この尾張下四郡の清州織田に仕えた家臣には、織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠の政務を担当した三奉行がいたが、この内の織田弾正は人物が傑出しており、遂に主の大和守を圧倒した。これが信長の父・信秀である。
 この頃、隣国三河の松平清康、駿河の今川義元、美濃の斎藤道三などがその台頭期にあり、共に尾張をうかがった。しかし、信秀は国人(有力豪族)や地侍といった実力者に接近し自分の味方に入れ、彼らを率いて美濃や三河の国境を侵犯し、やがて織田家きっての武将として内外に知られるようになる。(図は「図解戦国史」(成美堂出版)より)

 織田信長はこのように着々と実力を付けつつあった25歳信秀の子として、1534年5月(天文3)勝幡城で産声を上げた。
 信長(幼名・吉法師)は幼少の頃から、学問には全く興味を示さず、目下の者を引き連れて異様な風体で町中を練り歩くなど奇行が目立ち、周囲からは「大うつけ」と呼ばれるなど、傅役の重臣・平手政秀が手を焼いた
 しかし、信秀は信長の型破りな性格を愛し、戦国を生き抜く逸材と見ていた。弟・信行は品行方正で家臣からの評判も高かったが、信秀は一貫して信長を嫡子と定め、13歳で元服の折には自分の「三郎」を与え、織田三郎信長と名乗らせたのである。

|

« 弱者救済出来るのか 軽減税率 | トップページ | 葉牡丹の出番 »

戦国時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/534272/58753040

この記事へのトラックバック一覧です: 争乱の戦国史81(室町Ⅳ21): 織田信長の登場:

« 弱者救済出来るのか 軽減税率 | トップページ | 葉牡丹の出番 »